ファウストと現代日本人

 もともと、或る書物が古典という名誉ある地位に上ったのには、それが時代を越えた価値を有しているという面もあろうが、運よく火災その他の災害を免れて、今日に伝えられているという面もある。その古典が書かれた時代にも、他に多くの本が書かれたのであろうが、何分にも、印刷術による大量生産の時代でなく、写本の時代であるから、今日まで生き延びることが出来たのは、よほど運のよい本だけである。それに、その古典が生れた時代と、私たちの時代とでは、何も彼も大きく変化している。仮に古典が、その生れた時代には非常に有益で、非常に面白いものであったとしても、今日、同じように有益で、同じように面白いということはない。あるはずがない。専門的研究家でない限り、今日、セルバンテスの『ドン・キホーテ』やゲーテの『ファウスト』を読んで、正直に面白いと思う人が、この日本に何人いるであろうか。


108-109頁(『本はどう読むか』清水幾太郎

ファウスト』に挑戦して挫折した経験がある小生は、清水氏のこの指摘に、思わず膝を打ってしまった。もっとも、小生の手を出したのが日本語訳の『ファウスト』だったのとは対照的に、清水氏の場合は原書だった。

 あの山田珠樹氏は言っている。「ドイツ語を習ひ初めた時にファウストを買って来て置くのは笑ふべきことではない。その心は褒めてよい。」私がそうであった。中学に入ってドイツ語を学び始めた時、誰かが、ドイツ語をやるのなら、ファウストを読まねばいけない、と私に言った。ファウストとは何かを私は知らなかった。野球のファーストに似ていると思いながら、その日か、その翌日か、生れて初めて、日本橋丸善へ行った。当時の丸善は、戦後と違って、非常にアカデミックな、貴族的な感じのする書店であった。今でもよく覚えているが、店員は、クレーナー版の『ファウスト』を中学に入ったばかりの少年に渡してくれた。少年は、逃げるように丸善を出た。家に帰って、小さな独和辞典でファウストという言葉を探したら、「拳骨」という訳語が出ていた。この辞典には、それが人名であることも、ファウスト伝説のことも、ゲーテの作品であることも記してなかった。しばらくの間、私は拳骨のことだと思っていた。


137-138頁(『本はどう読むか』清水幾太郎

本はどう読むか (1972年) (講談社現代新書)

本はどう読むか (1972年) (講談社現代新書)