第144回芥川賞直木賞候補決定

第144回芥川龍之介賞候補

1. 朝吹真理子『きことわ』(新潮9月号)

 永遠子は夢をみる。
 貴子は夢をみない。



「ふたりとも眠ったのかしら」


 さっきまで車内を賑わせていたたあいない会話もすでにとぎれて静まりかえっている。ひとしきりふざけあっていたが、長引く渋滞で貴子は眠ってしまった。すぐそばで立つ貴子の寝息を永遠子も聞くうち、意識は眠りに落ちこみかけていた。運転席から、「ふたりとも眠ったのかしら」と貴子の母親の春子の声があがる。永遠子はうすくあけていた目をつむる。後部座席を確認する春子の視線を瞼のうちでとらえる。目視しようのない春子のすがたをみている。夢のなかでの狸寝入りなどはじめてのことだと永遠子は思いながら、眠ったふりをつづけた。
 二十五年以上むかしの、夏休みの記憶を夢としてみている。つくられたものなのかほんとうに体験したことなのか、根拠などなにひとつ持ちあわせないのが夢だというのに、たしかにこれはあの夏の一日のことだという気がしていた。かつて自分の目がみたはずの出来事に惹き込まれていた。なにかのつづきであるかのようにはじまっていた。自分の人生が流れてゆくのをその目でみる。ほとんどそのときそのものであるように、幼年時代の過去がいまとなって流れている。とりたてて記憶されるべきことはひとつとして起こらなかったはずの、とりとめのない一日の記憶がゆすりうごかされていた。夢に足が引き留められている。永遠子は、隣で眠る貴子のしめった吐息が首筋にかかるのも、自分が乗っている車体をとりまくひかりも、なにもかも夢とわかってみていた。


 永遠子は、夏になると、住んでいた逗子の家からバスで二十分ほどかけて、葉山町の坂の上にある一軒家をたずねた。その家ではじめて貴子に会った。貴子は、母親の春子と叔父の和雄と三人で東京から彼らの別荘であるその家に遊びに来ていた。春子と和雄は年子で仲がよく、いつも三人で葉山に来ていた。はじめは、新聞広告に出ていた管理人募集がきっかけで、別荘の管理人として働きはじめた母親の淑子に連れられて、永遠子はねっとりとした海の気を背後に、家にむかう坂道を上った。子どもが好きだという春子に誘われて、永遠子は、貴子がうまれる前から、たびたび葉山の家にかよっていた。春子が貴子をうんでからもそれはかわらなかった。年が経つにつれ、永遠子一人で葉山の家にむかうようになり、最後は貴子と布団をならべて寝泊まりをしていた。貴子と永遠子が最後に会ったのは、二十五年前の夏。貴子が小学三年生で八歳、永遠子が高校一年生で一五歳だった。ふたりは七つ年が離れていた。一九八四年のことだった。
 早朝から蝉がわんわんと鳴き、今日もとびきり暑くなるだろうという兆しをたたえているなか、永遠子は、春子と和雄と貴子の四人で、葉山の家から車で小一時間の三浦半島の突端にむかっていたのだった。風通しのよい岩場の濁りのはらわれた潮溜まりに手をいれた貴子は、海水温の上昇でうごきがとりわけにぶくなった赤なまこを水鉄砲がわりにぎゅっと握っては水を吐き出させ和雄にかけた。へたって水がでなくなると、またあたらしいのをつかみ、それをくりかえした。岸辺にちょぼちょぼと生えた芝のうえに腰をかけていた春子が野良猫をみつけ、貴子が車の中で食べ余した魚肉ソーセージをやりに、スカートの裾をすこしたくしあげて猫のもとへとにじり寄った。永遠子は岩陰の黒と白とがまだらに重なりあう隆起海食台の地層にひかれて、飽きもせずそれをながめていた。なまこを持った貴子に追いかけまわされ、Tシャツも短パンもすっかり水浸しになった和雄が永遠子の方にむかってくる。
「長袖だと暑いよなあ」
 和雄はひかりよけのカーディガンに袖を通した永遠子をいたわるように言った。
「暑くないよ」
 日光にかぶれやすかった永遠子は、夏の外出時にはいつもおおきな日よけ帽をかぶり、色の濃い長袖のカーディガンを羽織っていた。永遠子は、ほぼ水平に堆積したさまざまな年代の地層をひとつひとつ説明し、千二百万年前から四百万年前にかけて堆積した海底火山の溶岩が冷えて固まった黒がちのスコリアや、そこに挟まる火炎状にゆらいだ白いシルトの荷重痕をなで、これは水深三千メートル下で起きた運動の痕跡なのだと中学校で教わった知識を和雄と春子に披露した。
「あの白っぽいのはいつごろの地層なの?」
 春子は視線を遠くにうつし、ところどころ白くなっている鋭く切りたった岸壁を指してたずねる。永遠子は口に手をあてて笑う。
「あれは、海鵜の糞」
「えっ。白いところ全部?」
「そう。毎年渡って来るから岩肌が真っ白くなったの」

新潮 2009年 09月号 [雑誌]

新潮 2009年 09月号 [雑誌]

2. 小谷野敦『母子寮前』(文学界9月号)

 母から電話があって、今週末、帰れるか、と訊かれた時、私は少し笑いを含んだ声で、
「なに、また見合い?」
 と言った。しかしそうではなく、首のリンパ腺の腫れがひかないので近所の医者へ行ってレントゲン写真を撮ったら、肺に影があったので、実家の近くのD大学病院に検査入院することになったと言う。私はたちまち、暗い予感に胸を塞がれた。入院が予定されている前日は、編集者と食事をする予定があったので、夜になるけれども、その後で帰ることにした。電話は、二〇〇六年九月二十七日のことだった。


 だが、友人に話すと、肺に影があるといっても肺繊維症とかいうのもあるから、というので、親戚にもがん患者はあまりいないこととて、私も少しは楽観的になり、幾分かの不安を抱えたまま、食事を終えて実家へ戻った。私は、七年ほど前に大阪の大学を辞めてからは、東京のアパートやマンションに住んで、埼玉県にある実家には、時おり帰るだけだった。実家に住まなかったのは、父が定年で家にいたからである。私と父はまるで気が合わず、一日中家に父がいたのではとても暮らしていけない、と前々から思っていた。
 夜十時過ぎころ家に着くと、母は意外に元気で、むしろ三日の入院の間、父が生活できるかどうかのほうを心配しており、菓子パンやカップ麺などを買い込んでいた。父はそれまで、一人暮らしをしたことのない男だった。
 翌朝、タクシーを呼んで、母と二人で病院へ向かった。いざ入院手続きの室へ入って待っていると、さすがにいくぶん不安になってきた。そこへ、母の妹で、近所に住んでいる婦美子が来た。ひどく慌てた様子で入ってきた叔母の顔は、やはり緊張していた。婦美子叔母は、結婚前、私が小学校へ上がるころ、同居していたこともあり、八人きょうだいの母としては一番頼りにしていた。その時私は村松友視の『鎌倉のおばさん』の文庫本を読んでいたが、待っているあいだ、屋外に設けられた喫煙所へ何度か立った。
 時間が来て、案内の看護人に導かれて六階へ連れて行かれ、窓の脇の小さな待合所で、丸テーブルに三人で座った。缶コーヒー等の自動販売機があり、ほかに丸テーブルが二つあって、各々、患者の家族らしい人たちが掛けてあれこれ話していた。そのうち一組では、五十くらいの女性が涙を流していた。
 ほどなく、看護士が来て問診を始めたが、この看護士が質問の要領が悪く、「お通じは」というのに母が「日に一回、いえ、二回くらいでしょうか」と答えると、「二日に一回ですね」などと言う。また叔母が「姉が」と言うと、既に母が、これは妹で、と言っているのに、母のことだと分からず、「あ、あとお姉さんが?」などと言う。私は、タバコが吸えないこともあって、不安が募ってきた。
 そして入院する予定の大部屋に連れて行かれたが、大学病院といっても、何か汚い雰囲気の部屋で、テレビこそあったが、その左手入り口のベッドを指定されて、母はパジャマに着替えつつ、「なんだか本当に病人になっちゃいそう」と不安げな表情で笑って見せた。
 医師の説明があるというので、三人で面談室に向かった。窓のある小さな部屋で、長い机があり、私は奥に、母が中央に座を占めた。少し白髪があるが三十代後半とおぼしい医師が入ってきて、私の向かいに座り、若い白衣を来た女がその向こうに座った。あとで看護婦長だと分かった。叔母が手間取ったため、少しそれを待った。婦長の手元に、肺の血管を模した彫状の模型がめった。

母子寮前

母子寮前

3. 田中慎弥第三紀層の魚』(すばる12月号)

 長い方の竿の仕かけには二十号の錘を使っているのに、潮の流れに持ってゆかれる。道糸は左へ向いて竿と直角に張っている。潮の動きは目で見て分るほど激しい。関門海峡の流れは赤間関側から見て、満ちる時は右へ、引く時は左へ向う。信道たちがいま竿を出している一角だけは、ドックとその沖の古い波戸で囲われた小さな湾のような地形であるために流れはまだ緩やかで、竿は岸壁の車止めに引っかける形にしておけばよかった。流れがもっと強い場所だと海面を漂う藻やごみが道糸に引っかかり、竿がそのまま持ってゆかれそうになることもある。信道は釣りをする度に、なんでここの海はこんなに不便なのだろう、潮の流れが左右ではなくて前後ならもっと楽な筈なのにと、海峡を相手にする以上絶対に無理な条件を思い描く。
 時計を見ると十一時を回っている。スイートコーンを餌にした短い竿で近いところをフカセ気味に探りながら、
「昼飯、どうする?」と信道が訊くと、勝は持っていた竿のリールを巻き、仕かけを移動させ、少し間を置いて、
「もう、帰るわ。やっぱ塾の宿題、気になるけえ。」
 四年二組では塾に通う生徒の数が全体の半分近くになり、これからも確実に増えそうだった。あんたはいいの? と母の祥子に問われることもある信道は、行きたくないので行っていない。
「そうかあ。帰るんかあ。」
「ガヤマは、まだやるん?」
 信道は苗字が久賀山なので、ガヤマだった。最初にそう呼んだのは勝だったという記憶がある。
「いいや、やめるわ。」
「ごめん。俺もほんとはまだやりたいんやけど」
「お前が帰るけえ俺も帰るっちゅうわけやないっちゃ。もう潮が引きよるけえ、これ以上粘ってもどうせ駄目やろ。」
 五時半から始めて信道がメゴチ四匹に掌をどうにか出るタイが一匹、同じサイズのメイタが一匹、勝はメゴチ三匹にキスとハゼが一匹ずつだった。ムシ餌はもう少しある。引き潮の時に釣れることだってある。でも一人で残るのはなんとなく張合いがなかった。今日の釣りは信道が言い出した。勝は宿題を気にしながらも、お前が誘ってくれたけえ行く口実が出来た、と嬉しそうに応じたのだが、釣り始めた時からやはりどこか落ち着かない表情だった。好きなことをしている自分自身に苛々しているのだと信道は思った。そんな勝は初めてだった。
 一人で残りたくないもう一つの理由は、ドックとこちらの岸壁を隔てる金網の傍の石畳のあたりにいる、四十歳から五十歳くらいまでの、ボラ釣りの男たちだった。そのあたりは岩と砂が混った海底が、沖から岸へ近づくにつれて緩い上り坂になっているから、このへんでは一番いい場所だ。市場の排水口もある。そこをいつも占領している体の大きな男たちから、もっと離れて釣れ、子どもにボラは釣れんやろ、ボラに釣られて引きずり込まれるやろうけなあ、などと言われた時に一人だと、どうしていいか分らなくなりそうだ。市役所に勤めていた父の紀和を四歳の時に急な病気で亡くしている信道にとって大人の男は、怖いとか嫌いとかいうよりも、自分と同じ男なのになんだかよく分からない、もし怒鳴られたとしてもどう反応すればいいのか迷ってしまうような存在だった。

すばる 2010年 12月号 [雑誌]

すばる 2010年 12月号 [雑誌]

4. 西村賢太苦役列車』(新潮12月号)


 曩時北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。
 しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思いきりよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りにして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上に再び身を倒して腹這いとなる。
 そしてたて続けにハイライトをふかしつつ、さて今日は仕事にゆこうかゆくまいか、その朝もまたひとしきり、自らの胸と相談をするのであった。
 その貫多は十日ばかり前に十九歳となっていたが、未だ相も変わらず日雇いの港湾人足仕事で生計を立てていた。
 中学を出て以来、このときまで全く進歩もなく日当の五千五百円のみにすがって生きる、不様なその日暮しの生活を経てていた。
 無論、貫多とて何も好きこのんでそうなっていたわけではない。根が人一倍見栄坊にできてる彼は、本来ならば自分と同年齢の者の大半がそうであるように、普通に大学生であるのを普通に誇っていたいタイプの男なのである。当たり前の学問と教養を、ごく当たり前に身にまとっていたい男なのである。
 だが彼が大学はおろか、高校にさえ進学しなかったのも、もとより何か独自の理由や、特に思い定めた進路の為になぞ云った向上心によるものではなく、単に自業自得な生来の素行の悪さと、アルファベットも完全には覚えきらぬ、学業の成績のとびぬけた劣等ぶりがすべての因である。そんな偏差値三十レベル以下の彼を往時受け入れる学び舎は、実際定時制のそれしか残されておらず、これは馬鹿のくせして、プライドだけは高くできてる彼にかなりの屈辱であったのである。
 加えて、すでに戸籍上では他人になっているとは云い条、実の父親がとんでもない性犯罪者であったことからの引け目と云うか、所詮、自分は何を努力し、どう歯を食いしばって人並みな人生コースを目指そうと、性犯罪者の伜だと知られれば途端にどの道だって閉ざされようとの諦めから、何もこの先四年もバカ面さげて、コツコツ夜学に通う必要もあるまいなぞ、すっかりヤケな心境にもなり、進路については本来持たれるべき担任教諭とのその手の話し合いも一切行なわず、また教諭の方でも平生よほど彼のことが憎かったとみえ、さわらぬ神に祟りなしと云った態度で全く接触を試みぬまま、見事に卒業式までやり過ごしてくれていたから、畢竟、彼に卒業後のその就職先の当てなぞ云うのはまるでない状況だった。
 その当時、貫多は母親の克子から、十万円の現金を強奪するようにしてむしり取ると、その金で鶯谷に三畳間の部屋を借り、ひとまずそこを根城として働く先を探しだしたが、十五歳と云う満年齢では中学校側からの口利きがなければ土方の見習いどころか、新聞配達員にすらなれない現実を、この段になって初めて知るに至ったのである。
 はな貫多は、宿から歩いても行ける、最も近場の繁華街として上野にゆき、アメ横や中央通りなぞの商店の軒先をひとつひとつ見て廻り、そこに求人の札がないかどうかを調べたりしたものである。そしてたまさかアルバイト募集の貼り紙がしてあるのに喜びいさんで飛び込んでみれば、それは十八歳以上を対象とした求人であり、かつ高卒、普通免許も必須条件との、てんから彼なぞ受け付けぬ類のものばかりであった。それでも中に一軒、かような貼り紙をしていたカレー屋で、彼を奥の事務室みたいな部屋へと招じ入れてくれたところもあったものの、履歴書すら持参せぬ全くの世間知らずの彼は、僅か数分で苦笑いに送られて外に押し出される始末だった。
 どうにも初手からして計算違いだったわけだが、更にはそれまでは家で母親の金をちょくちょく盗み、中学生の分際で深夜にしばしば伊勢佐木町界隈なぞを徘徊して、いっぱし若きローンウルフ気取りでいたような彼も、いざひとりで生活してみると便所の紙一枚使うにも金がかかると云う道理を身をもって感ずるに至り、そのアパートを借りたあとに残った六万円程の金も、当初は一回飯を食えば確実に目減りしてゆくと云うことにすら、全く思いが及ばないような次第であった。
 そうなると、最早履歴書を握りしめ、働き場所を当てもなく足で探すなぞ云う悠長な行動をとれる展開でもなく、これには強いあせりを覚えたが、しかし人間窮すれば大したもので、どこでどう気付いたのか、それまでそんなものはまるで念頭にもなかった、売価百円の求人雑誌と云うのを彼は手にすることになり、そこには年齢不問の上に給料を日払いでくれる、〝埠頭での荷物の積み下ろし〟 なる働き口と云うのがデカデカと掲載されていた。
 すぐさま電話をかけてみると、受話器の向こうの担当者は実にあっさりと彼を雇い入れてくれ、電話口で名前を聞いただけで、あとは履歴書提出の必要もないと言う。汚れてもいい服と軍手、それに認め印だけ持って翌朝七時に来るようにとのことである。
 これに貫多は、募集要項には八時半から夕方五時までの作業時間とあるのに随分と早くに招集するものだと、半ば訝しがりながらもしかし背に腹はかえられぬ思いで、翌日、まだ江戸川にいた子供時代の、少年野球の日曜練習時以来となる早朝六時に何んとか目を覚ますと、薄ボンヤリした頭で山手線内のとある駅に程近い、その会社へと行ってみた。と、かの社の入口附近には幾台もの小型のマイクロバスが停まっており、その周辺には余り上品そうにも見えない老若の男が、何やら数十人ばかりたむろしている。

新潮 2010年 12月号 [雑誌]

新潮 2010年 12月号 [雑誌]

5. 穂田川洋山『あぶらびれ』(文学界11月号)

 少なくとも山梨の山間においては台風の当たり年であることを喜んでいる者などいなかった。とりわけ旧滑石村、現在の甲州市滑石では、ほうぼうで小規模ながら土砂崩れが起きており、公共交通機関はもちろん自家用車の往来にも支障をきたしていた。谷深いところに民家があるわけではないので人命に関わるような被害は出ておらず、河原に設置されていた簡易トイレや今やほとんど使われていない古い吊り橋の床板が流されたという程度ですんではいたが、キャンプ場や温泉宿の客足は芳しくなく、特にキャンプ場は夏のハイシーズンだというのに通常の二割ほどの利用率しかあげられず、行楽客頼りの周辺商店の売上も大打撃を受けていた。滑石に暮らす人々は元来明朗な善男善女で表向きに恨み言を口にする質ではないが、この夏に限ってはしばしば文句を垂れており、会社所有の売り物件に週のうち一日二日出入りするだけの村外者である江崎照夫がそれを耳にしたのはたいへん稀な出来事で、無慈悲な雨風をもたらす台風や崩れやすい杉単一層林を推し進めた山林行政への不満ではなく、台風が来たからといって予約を反故にしてしまう行楽客への呆れだった。もっとも、たとえ台風一過の晴れわたった空の下であってもチョコレート色に染まった川が間近に轟いていては寛げるはずもなく、滑石来訪をとりやめにする判断は妥当なものといえた。
 関東は暖冬であったのに山梨北東部では記録的積雪で、雪解け水により春先から川の水嵩が常時高く、長梅雨を経た七月半ばに初めの台風がやってきて伊豆半島西岸へ上陸する寸前に温帯低気圧へと変わり速度が落ちたため丸三日停まり大雨を降らせ、そこへまた八月の台風ラッシュにみまわれたものだから、例年どおり水曜日の休みにやってきて釣り人のほとんどいない閑散とした滑石川で悠々とアマゴ釣りに興じるという江崎の目論見は外れたのだった。前日に雨が降らなければ濁りはさほどではないが水量そのものは多く流れも速いのでとてもやすやすと川釣りができる状態ではなかった。東京を発つ段から川の状態はおおよそわかっているにもかかわらず、職場から帰った火曜日の深夜か翌水曜日の早朝に三鷹の自宅から車を二時間弱走らせ滑石にやってくる習慣は変えることができずに、到着後すぐに橋の上から水量を確かめて途方に暮れ、心うちにはやはり釣りへのほのかな昂りを抱えているものだから、道具の手入れや古書店で買った釣り雑誌を漫然と眺めるなどして過ごし、夜十一時になって三鷹に戻るという休日を春先から重ねていた。
 ランディングネット、餌釣りでいうところの手網を自作することも暇つぶしの一つとなっていた。江崎が学生時代から使ってきた九百七十円のランディングネットは傷だらけで、ニスも剥げ落ち沁み込んだ水を含み黒ずんでおり、重く、なにより小渓で使うには大きすぎた。かといって買い替えようにも釣具店に置いてある軽量で手回しのいいランディングネットは高価なため手が出せず、大きさ、重さ、バランス、指がかりのよさ、デザインに理想を求め、暇にあかせて自作に臨んでみたのだった。軒下に転がっていた乾竹に始まり、裏山のアケビ、滑石川沿いに生え連なる樹々から垂れ下がっているさまざまな蔓性植物を用いて江崎はほぼ二週間に一本のペースでランディングネットの木枠を作った。なかでもお気に入りはフジの葡萄茎で、やや水位の下がったときに河原の大岩の脇に溜まった土をほぐし掘ってみると、ほどよい太さのものを見つけられた。ゴボウのようなそれはフジの根であって、プライヤーで軽く挟み回して象牙色の外皮を削ぎ落としていくと白い内があらわになり、酸味とも灰汁味ともとれる噎せかえる強い青臭さがたちのぼった。手に熱るような痒みをもたらすぬめる樹液を洗い落とし水に晒したのち、板に釘を十三本打ちつけて拵えた型に縛りつけると、あまり鋭角な曲線に沿わせることはできなかったが、曲げ皺も味として活かし、江崎がかねてより求めていた幅狭でちょうど尺アマゴが一尾掬えるだけの無駄のない大きさに仕上げることができた。乾燥させた木枠に取り付ける網も自作した。網の編み方などまったく見当がつかないので手持ちのランディングネットの網目を参考にして進めてはみたが、糸を引き結ぶときに右手の人差し指の中ほどと薬指の付け根が擦れ、皮がめくれ、血が滲んだ。軍手をつけてやってみるとかえって繊維が傷口を刺激してしまい、軍手それ自体がむず痒く息苦しくてしかたがないので結局は素手で編みつづけた。

文学界 2010年 11月号 [雑誌]

文学界 2010年 11月号 [雑誌]

第144回直木三十五賞候補

1. 犬飼六岐『蛻(もぬけ)』(講談社
蛻

2. 荻原浩『砂の王国』(講談社

第一章 祈るべきは、我らの真下


1


 路上に寝て街を眺めれば、人生観は確実に変わる。
 クリスマスに近い週末の繁華街で私はそれを知った。
 歩道に体を横たえたのは、気まぐれでも、酒に酔っていたためでもない。一昼夜歩きづめだった足が、持ち主の酷使にストライキを起して、動くことを拒否したのだ。
 しゃがみこむだけのつもりだったのだが、尻がアスファルトに触れたらもうだめだった。上半身も力を失い、その場にくずおれた。私はこの一週間の大半を歩いて過ごしていた。食い物はろくに口にしておらず、日々の睡眠時間もわずかだった。
胸を抱えた胎児の姿勢はすぐに、久しく忘れていた大の字の体勢になった。引力と哺乳類の進化の法則に逆らって直立し続けてきた背骨が、悲鳴なのか歓声なのかわからない軋みをあげた。頭はもうろうとしているにもかかわらず、感覚だけは冴えきっていた。生ゴミの臭いがやけに強く鼻を刺す。表通りから一筋入った脇道だ。街のいたるところで四六時中、私の背中を急き立てていた有線のクリスマスソングが、ここまで追いかけてきた。
 同じ曲を何度聞いただろう。もう飽き飽きだ。右手にそびえる雑居ピルのデコレーションはツリーをかたどったものなのだろうが、真下から仰いでいる私の目には、コードがからみ合う大量の煤けた電球しか映らなかった。瞬いているのは安っぽく毒々しいネオンサインばかりで、見上げる空に星はない。
 時おり頭上を通行人が行きすぎていく。体を反転させる気力もなく、自分を見下ろしてくる、あるいは顔をそむける、その一人一人に感情の死んだ視線を投げ返した。私をただの障害物と見なして、無表情に避けて通る水商売の女。面倒の種となることを恐れて視線を逸らすサラリーマン。小さな悲鳴と舌打ちを落としてくるカップル。「だいじょうぶか」と声をかけてくる奇特な人間は一人としていない。それどころか、碓の目にも侮蔑の色が見て取れた。
 どうしてそんな目で俺を見る。
 一晩1100円のネットカフェにも居られなくなり、路上で暮らしはじめたのは先週の土曜からだ。髭は薄く伸びているだけだし、服も汚れてはいなかった。二年前、まだ会社勤めをしていた頃に買った、ポール・スミスチノパンツとナイキのウインドブレーカーだ。真冬の装いにしては少々薄着だが、自由業か休暇中のサラリーマンにしか見えないはず、わずかな食糧を求めてデパ地下の試食コーナーを巡っていた時も、そう高をくくっていた。酒の臭いもさせてはいない。酒を買う金があれば、いまごろ一袋90円のロールパンを買っている。
 歩道に仰臥したのは、急病人だと疑われ、救急車が呼ばれるのではないか、そんな期待もあってのことだった。実際、この四日間で六個入りのロールパン一袋と一杯の雑炊と試食用のかまぼこやウインナーソーセージの小片しか食っておらず、毎日の睡眠は図書館か椅子が用意された本屋でのひとときの仮眠だけである自分は、すでに病人であるに違いないと私は考えていた。
 首尾よく病院に運ばれれば、今夜一晩、温かいベッドの中で眠れる。久しぶりのまともな飯にありつく幸運にも恵まれるかもしれない。五分粥白身魚の煮つけと青菜のおひたし。味気ない病院食がいまは極上のメニューに思えた。だが、どいつもこいつも知らん顔だ。横転した放置自転車に対する態度も同然、いや、それ以下だった。
 道のど真ん中に寝そべっているわけじゃない。片隅だ。それなのに必要以上の距離を取って迂回していく。見なかったことにしよう、そんな表情を浮かべて。
 なぜ避ける。俺は犬の糞か。
 あきらかに私をホームレスと見下した行動だった。
 それまで住んでいたマンションに居られなくなり、ネットカフェに寝泊まりするようになったのは、三ヵ月前。店が深夜割引料金になる午後十時まで街をうろつく生活を始めると、いたるところでホームレスと出くわすようになった。いま思えば、野良猫が温かい場所を求めて集まるのと同じことだったのだろうが、その時でも私は、ホームレスたちを自分とは別世界の人間だと考えていた。

砂の王国(上)

砂の王国(上)

砂の王国(下)

砂の王国(下)

3. 木内昇漂砂のうたう』(集英社
漂砂のうたう

漂砂のうたう

4. 貴志祐介悪の教典』(文藝春秋

第一章


 混沌とした夢の中にいた。
 どうやら、舞台を見ているようだ。役者は全員高校生だった。担任している二年四組の生徒たちであることがわかる。
 演目は、クルト・ヴァイルの『三文オペラ』らしい。バンドネオンが『モリタート』の旋律を奏で始める。よく見ると、高校生たちには操り人形のような紐が付けられていた。ぎくしゃくと舞台の上を動き回ってはいるが、どう見ても、自らの意志による行動ではない。
 両隣にはうら若い女性が座っていて、両手に花の状態だった。左側にいるのは、養護の田浦潤子教諭。右側にはスクールカウンセラーの水落聡子がいて、心配そうな顔で舞台を見守っている。
 高校生たちは、操られるままに整然と与えられた役割をこなしていたが、中に何人か、勝手な動きをして芝居の流れを阻害している生徒たちがいた。
 腹が立ったので、チョークを投げてみたが、いっこうに当たらない。それで、射的のゲームに使うコルク弾を装填したライフルを撃ってみた。
 一人、また一人と生徒に命中する。被弾した生徒は、影絵人形のように平べったくなって、舞台から奈落へ転げ落ちていった。
 客席から、どっと笑いが起きた。
 射的の腕前を賞賛してくれるのではないかと期待して、二人の女性の方を見やったが、反応はなかった。
 いつのまにか、前の方の列で、ざわめきが起きていた。校長、教頭、主幹教諭などの、学校の幹部連中だ。何が気に入らないのか、しきりに騒いでいる。
 右往左往する彼らの影で、舞台が遮られるので、ライフルを向ける。
 数発撃ったところで、突然、視界が一変した。
 大空を飛んでいる。
 空を飛ぶ夢を見るのは、久しぶりだった。いつもなら、高く飛ぼうとすればするほど、強力に大地に向かって引き戻され、せいぜい地上数センチを滑空するのが精一杯だった。だが、今は飛んでいる。しかも、周囲の情景は、信じられないほどリアルだった。
 まだ早朝のようだ。東の空には、朝焼けのなごりが見える。
 町田市北部の上空、数百メートルだろうか。多摩市と町田市を隔てる丘陵地帯が一望にできる。小野路城跡にある晨光学院町田高校が、ちょうど真下にあった。渡り廊下で結ばれて『コ』の字形に並んだ校舎と体育館、グラウンドが、後ろに飛び去っていく。 そこでUターンして、南へと向かった。国道57号を横切り、七国山緑地へ向かう。さらに前方には、団地群が姿を現していたが、急速に高度を落としていく。
 小さな民家が目の前に迫ってくる。かなり老朽化した平屋の日本建築で、屋根瓦の一部が脱落しており、ブルーシートで恒久的に応急補修してあった。
 これは、この家だ。半覚醒の状態で認識する。自分が寝ている家を、空から眺めている不自然さも、たいして感じない。
 視点は、ふわりと、庭の物干し台の上に降り立った。


 はっと目が覚める。
 カラスの鳴き声がした。
 二度、三度。
 枕元の目覚まし時計を見た。まだ、五時過ぎである。
 蓮実聖司は、大きく伸びをした。何が悲しくて、毎朝、こんな時間にたたき起こされなくてはならないのかと思う。だが、経験上、我慢して寝ていても、カラスは鳴き止まないことがわかっていた。毎朝きちんと起こしに来る律儀さは、ある意味、賞賛に値するほどだ。そして、カラスの押し売りモーニング・コールは、こちらが起きたことを示すまでは、けっして終わらないのだ。
 蓮実は、布団の上に起き上がると、両肩と首をぐるぐると回した。それから、縁側の方に行って雨戸を開け、庭を一瞥した。
 いた。巨大なカラスが二羽、物干し台に止まって、平然とこちらを見返している。
 町田のカラスは、全体に体躯も態度も大きいが、おそらくは、その頂点に立つであろうボスガラスのペアだった。どういうわけか、蓮実が借りているこの朽ちかけた家がお気に入りらしく、毎日やって来る。蓮実は、二羽を北欧神話の主神オーディンの眷属にちなみ、思考(フギン)と記憶(ムニン)と名付けていた。フギンは、ハシブトガラスとしては群を抜いて巨大であり、北海道のワタリガラスに匹敵するサイズがある。ひと回り小さいムニンは、おそらく雌だろう。カラスは、瞬まばたきするときに瞬膜で目が真っ白になるが、ムニンの左眼は潰れているのか、ずっと白濁したままであり、外観にいっそうの禍々しさを加えていた。どちらも、一声鳴けば、野良犬などたちまち逃げ去るくらいの凄みがあった。
 フギンとムニンは、悠然とこちらを見返している。蓮実が、こらっと叫んでも、いっこうに逃げようとはしない。ものをつかんで投げるふりをしても、駄目である。
 だが、蓮実が、鴨居の上に隠してある硬球をこっそり持ったとたん、ぱっと飛び立った。どう聞いても阿呆と聞こえる捨て台詞を残して。毎朝のお約束とはいえ、こちらの作為を見抜く眼力は、たいしたものだった。

悪の教典 上

悪の教典 上

悪の教典 下

悪の教典 下

5. 道尾秀介『月と蟹』(文藝春秋

第一章


(一)

カニは食ってもガニ食うなつてな、昔っから言うんだ」
「何それ」
 祖父の昭三に訊き返しながら、慎一は鯵のなめろうを箸でつまんでご飯に載せた。なめろうはこうして白いご飯というしょに食べるのが一番美味い。そう教えてくれたのは昭三だったが、当の本人は食事のときに酒を飲むので米を食べない。いつも箸の先で皿をこするようにして、なめろうの隅のほうをちょっと取り、長いことかけて口の中で味わってから、湯呑みの日本酒をすする。
カニは食ってもいいけど、ガニは食っちゃいけねえんだ」
「だから、何。ガニって何」
 慎一の苛立った声に、昭三は座卓の向こうで半白の眉を寄せた。
「なんだお前、反抗期か」
「祖父ちゃんがちゃんと喋らないからだろ。おんなじこと二回も言うから」
カニは食っていいけどもガニは食っちゃいけねえ。三回だ」
 ハンガーにシャツが掛かっているような、痩せた肩を揺すって昭三は笑う。嬉しそうに孫の反応を待っている。慎一は鼻の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。
「何でそうやって馬鹿にすんだよ、いつも」
 抑えたつもりが途中から強い声になった。昭三の目が、知らない子供を見るようなものに変わった。
 昭三がからかって、慎一が笑いながら言い返す。それがいつもの夕食の風景で、慎一も、たぶん昭三も、その時間が好きだった。祖父に申し訳ない気がしながらも、しかし慎一はどうしても笑うことができなかった。今日ばかりは難しい。
「慎ちゃん、何よ、どうしたの」
 母の純江が菜箸を持ったまま、お勝手から居間に入ってきた。
 お前のせいだ、という言葉が振り向きざま咽喉から飛び出しそうになったが、やっと抑えて舌打ちをした。
「――べつに」
「お祖父ちゃんに向かって大きな声出して」
「構わねえよ、純江ちゃん。慎一だって虫の居所が悪いときがあんだろ」
 頷いたような頷かないような、中途半端な仕草をして、純江はお勝手に引っ込んだ。途切れていたフライパンをゆする音がまた聞こえはじめる。
「ガニってのはな、この黒いとこだよ。このほれ、腹についてるバナナみてえな。毒があんだ」
「いいよ、もう」
 慎一が目も上げずに言うと、昭三は笑いの混じった息を洩らし、持っていた蟹の殼をガラ入れのボールに放り込んだ。濡れたマッチ棒を突き立てたような、一つきりの目が、ぎょろりと慎一のほうを見た。こうして半身に叩き割った蟹を、純江は味噌汁にしてよく出す。すぐそばの港で揚がった蟹のうち、こうした掌ほどの小ぶりのやつは安値でスーパーに卸され、それを買ってくるのだ。
「その傷と関係あんのかよ、不機嫌は」
 慎一の首の右側にある擦り傷を、昭三は顎で示した。
 ある――ことはある。しかしそれは、おそらく昭三が思っているようなかたちではない。どうとも答えられず慎一は黙っていた。つけっぱなしのテレビで六時のニュースがはじまり、昨日東京ドームで行われたらしい、美空ひばりの復活コンサートの様子が映っている。
「お前、東京にいたとき、ここ行ったか?」
 昭三が箸の先を画面に向けた。
「後楽園球場なら行った」
「政直とか?」
 一年前に死んだ父の名前を出すとき、昭三はまったくためらいがない。いつもこうしてさらりと口にする。慎一には、まだそれができなかった。父の話をするたびに、何か感情の薄膜を破るような思い切りが必要だった。

月と蟹

月と蟹