アメリカ音楽史 - 大和田俊之

〈国民文化〉の成立
 一八四二年一月、イギリスの文豪チャールズ・ディケンズアメリカに向けて旅立った。『ボズのスケッチ集』や『オリバー・ツイスト』などの作品は大西洋を隔てた新大陸でも話題になり、多くのアメリカ人読者が彼を心待ちにしていた。もともと好奇心旺盛で旅行好きのディケンズは、友人の作家ワシントン・アーヴィングの勧めもあり、渡米を決意したといわれている。約半年にわたってボストンやニューヨーク、それに五大湖周辺を回遊したディケンズは、帰国後、その旅行記を『アメリカ紀行』として出版した。
 ディケンズアメリカの自然や風景だけでなく、都市が抱えるさまざまな問題についても詳しく描写した。身体障害者用の教育施設や犯罪者を収容する監獄、それに精神病院や福祉施設――こうした記録は当時の状況を知るための貴重な資料だが、なかでも注目に値するのが都市のスラム街の描写である。ニューヨークを訪れたディケンズは、「さまざまな肌の色をした人の群れときらびやかな店々」が並ぶブロードウェイを通り過ぎ、ファイヴ・ポインツ地区へと足を伸ばしている。そこは安酒場が密集し、貧困や疫病などが蔓延するニューヨークでも悪名高いスラム街であった。
 汚物にまみれた通りは悪臭を放ち、腐った梁がいたるところで崩れ落ちている。建物のなかに入ると、「眠っている黒人たちでいっぱいの狭っ苦しい檻のような部屋」が並んでいた。やがてディケンズは、ファイヴ・ポインツ地区でも有名なダンス・ホールヘとたどりつく。そこでは労働者や移民など、社会の底辺に暮らす人々がつかのまの社交を楽しんでいた。女主人の合図で音楽とダンスが始まり、猥雑な賑わいはさらに盛り上がりをみせる。この様子を、ディケンズは次のように記している。


 すかさずヴァイオリン弾きは歯をむき出して笑い、必死に演奏をはじめる。タンバリンがそれに加わり、新たなエネルギーが生まれる。踊り手たちの間には新たな笑い声、女主人には新たな笑顔、ご主人には新たな自信、ロウソクたちには新たな輝きが生まれる。シングル・シャッフル、ダブル・シャッフル、カットとクロス・カット。指をパチッと鳴らす、目をくるくる回す、両膝を内側に折り込む、両脚の裏側を前に出す、ちょうどタンバリンを叩く自分の指のように、つま先と踵を軸にくるりと回る。そして二本の左脚で、二本の右脚で、二本の木の脚で、二本の針金の脚で、二本のバネの脚で、踊る――それらはあらゆる種類の脚であって脚でない。彼にとってこれはいったいなんなのだろう? そしていったいどのような人生を歩めば、いや人生を踊れば、周囲に起こる雷のようなこれほど興奮した拍手を得られるのか?


 ディケンズは目の前で繰り広げられる多彩な芸に興奮を隠せないでいる。ヴァイオリン弾きの演奏と踊り手たちのダンス。熱狂的に拍手を送る観客と、それを満足そうに見つめる店の主人たち。ここには、アメリカ商業音楽文化の原風景が描かれている。ミュージシャン、ダンサー、オーディエンス、そして興行主。彼らはのちに巨人なエンタテインメント・ビジネスを形成し、アメリカの音楽文化を世界に広めることになるだろう。
 では、ここに描かれる「ヴァイオリン弾き」はいったいどのような音楽を奏でていたのだろうか。また「踊り手」たちは、どのようなダンスを踊っていたのだろうか。


 アメリカ合衆国に国民的な娯楽産業が生まれたのは、米英戦争(一八一二―一八一五)終結後のことである。独立戦争(一七七五―一七八三)により政治的な独立を果たしたアメリカは、米英戦争によって経済的な独立を獲得した。国内の産業が発展し、交通網が整備されることで、アメリカでは急速に都市化が進んだのだ。一八五〇年までにニューヨークやフィラデルフィアを含む八つの都市の人口が十万人を超え、多くの人々は以前とはまったく異なるライフスタイルを送るようになる。彼らは自然のサイクルにもとづく田園の日常を離れ、時計が刻む時間に制御され、家族のもとを離れて見知らぬ人々に混じって生活を始めた。こうして、都市の新しい社会階層を対象にしたアメリカ固有の娯楽文化――ミンストレル・ショウ――が誕生したのだ。
 ミンストレル・ショウとは、十九世紀半ばにアメリカで流行した大衆芸能であり、顔を黒塗りにした複数の演者がステージ上で歌や踊り、それに短いコントなどを披露するものである。一八四三年二月六日にニューヨークで開催されたヴァージニア・ミンストレルズの公演をきっかけに爆発的に広まり、翌年にはエチオピアン・セレネイダーズというグループがホワイトハウスに招かれるほど人気は高まった。
 アメリカのポピュラー音楽史上、ミンストレル・ショウは非常に重要な位置を占めている、建国以来はじめて普及した国民的な娯楽は、さまざまな移民文化を統合する役割を果たすと同時に、イギリスを始めとしてヨーロッパ各地をツアーする輸出文化としても機能した。現在まで歌い継がれるアメリカのポピュラー・ソングの多くはミンストレル・ショウのために作曲されたものであり、「アメリカ音楽の父」と呼ばれるスティーブン・フォスターもミンストレル・ショウの作曲家としてキャリアを積んでいる。また、「白人が顔を黒塗りにして黒人を演じる」という形式が人種混淆に対する嫌悪と願望を複雑に交錯させるという意味で、その後のアメリカのポピュラー音楽の雛形としてとらえることもできる。本章では、ミンストレル・ショウをアメリカのポピュラー音楽文化におけるマトリックスとしてひとまず設定することで、そこに内在するさまざまな問題を検討してみたい。


劇場文化と階級対立
 一般的に十九世紀半ばに花開いたアメリカ文化としては、「アメリカン・ルネサンス」と呼ばれる文芸復興連動がよく知られている。ラルフ・ウォルド・エマソン (『自然論』一八三六) やヘンリー・デイヴィッド・ソロー (『ウォールデン』一八五四) が超絶主義と呼ばれるアメリカ独自の思想を展開しただけでなく、ジェイムズ・フェニモア・クーパー (『モヒカン族の最後』一八二六) 、エドガー・アラン・ポー (「モルグ街の殺人」一八四一、「黒猫」一八四三) 、ナサニエル・ホーソーン (『緋文字』一八五〇) 、それにハーマン・メルヴィル (『白鯨』一八五一) といった小説家が新大陸の「自然」を舞台にした作品を発表し、ウォルド・ホイットマン (『草の葉』一八五五) などの詩人が高らかにアメリカ国家を謳い上げた時代だ。彼らはそれぞれの立場で「アメリカ」を言祝ぎ、ヨーロッパとは異なるアメリカ独自の文化の必要性を説いた。


 しかし、都市に誕生しつつあった新たな社会階層を代弁したのは、彼らのような「偉人な作家」たちではなかった。エマソンメルヴィルはたしかにアメリカ文化の独自性にこだわったが、その作品はヨーロッパ芸術文化のフォーマットを逸脱するものではなく、当時の大衆の欲望を満たすものとはいえなかったのだ。
 都市における労働者階級の形成は、知識人との間に深刻な摩擦を生み出しただけでなく、アメリカ文化の二極化――知識人向けのハイブラウな文化と労働者向けのロウブラウな文化――を促進した。それを象徴的に示すのが、「アスター・プレイス暴動」と呼ばれる事件である。
 一八四九年五月十日、ニューヨークのブロードウェイ沿いにあるアスター・プレイス・オペラ劇場のまわりに一万五千人近くの労働者が集結した。興奮した彼らは、イギリス人俳優ウィリアム・チャールズ・マクレディ主演による『マクベス』の公演中止を求めて煉瓦や石を劇場に投げつけた。最終的に州兵が出動してなんとか事態を沈静化させたものの、二十二人の死者と三十八人の負傷者を出したこの暴動は、十九世紀アメリカにおける階級対立の深刻さを示す事件として語り継がれている。
 そもそも、この暴動は十分予期しうるものだった。ニューヨークの演劇界では、以前から上流階級と労働者階級の観客の間で対立が深まっていた。同じシェイクスピア作品の公演にしても、知識人や上流階級の人々が前述のイギリス人役者マクレディを好む一方、労働者階級の観客が贔屓にしていたのはアメリカを代表するシェイクスピア役者エドウィン・フォレストである。二人の演技は対照的で、マクレディが抑制された繊細な芝居を特徴とするならば、フォレストのパフォーマンスは大げさな台詞まわしと誇張された身振りがきわだっていた。それぞれの役者が拠点とする会場も異なり、フォレストが労働者向けのバワリー劇場にしばしば出演したのに対して、アスター・プレイスはマクレディなどのイギリス人役者が演じる上流階級向けの劇場として知られていた。
 メルヴィルホイットマンなどの作家も、当初は大衆への共感とアメリカ文化を擁護する立場からフォレストを支持していた。だが、メルヴィルの担当編集者で当時の文壇で絶大な影響力をもつエヴァート・ダイキンクは、やがてフォレストのわざとらしい芝居に反感をもつようになる。暴動の数日前からアスター・プレイスで始まった嫌がらせ――一部の観客が舞台に向けて腐った卵などを投げつけていた――に業を煮やしたマクレディが公演の中止を発表したとき、ダイキンクやメルヴィルをはじめとする知識人は、有力紙に公演の続行を望む嘆願書を掲載した。アスター・プレイスに集結した暴徒は、この嘆願書に反発した労働者階級の人々である。ヨーロッパ的な貴族趣味とホイッグ党的なエリーティズムを嫌悪する彼らは、その象徴たるマクレディを攻撃し、あくまでも自国の俳優にこだわったのだ。
 一八二〇年代以降、アメリカでは機会の平等や民主主義といった理念が急速に浸透した。出版業も発達し、ニューヨークやボストンでは大衆向けの週刊新聞も多くの読者を獲得する。一八二九年に就任した第七代大統領アンドリュー・ジャクソンにちなんで「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ば


アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

第1章 黒と白の弁証法 ―擬装するミンストレル・ショウ
第2章 憂鬱の正統性 ―ブルースの発掘
第3章 アメリカーナの政治学ヒルビリー/カントリー・ミュージック
第4章 規格の創造性 ―ティンパン・アレーと都市音楽の黎明
第5章 音楽のデモクラシー ―スウィング・ジャズの速度
第6章 歴史の不可能性 ―ジャズのモダニズム
第7章 若者の誕生 ―リズム&ブルースとロックンロール
第8章 空間性と匿名性 ―ロック/ポップスのサウンド・デザイン
第9章 プラネタリー・トランスヴェスティズム ―ソウル/ファンクのフューチャリズム
第10章 音楽の標本化とポストモダニズム ―ディスコ、パンク、ヒップホップ
第11章 ヒスパニック・インヴェイジョン ―アメリカ音楽のラテン化