ドライブ・マイ・カー

村上春樹が9日発売の文藝春秋12月号で新作短編を発表するとのこと。作品の題名は「ドライブ・マイ・カー」でありビートルズの曲にちなんだものだ。副題は「女のいない男たち」……なんだか気になる感じの題だ。

 これまで女性が運転する車に何度も乗ったが、家福の目からすれば、彼女たちの運転ぶりはおおむね二種類に分けられた。いささか乱暴すぎるか、いささか慎重すぎるか、どちらかだ。後者の方が前者より――我々はそのことに感謝するべきなのだろう――ずっと多かった。一般的に言えば、女性ドライバーたちは男性よりも丁寧な、慎重な運転をする。もちろん丁寧で慎重な運転に苦情を申し立てる筋合いはない。それでもその運転ぶりは時として、周囲のドライバーを苛立たせるかもしれない。
 その一方で「乱暴な側」に属する女性ドライバーの多くは、「自分の運転は上手だ」と信じているように見える。彼女たちは多くの場合、慎重に過ぎる女性ドライバーたちを馬鹿にし、自分たちがそうではないことを誇らしく思っている。しかし彼女たちが大胆に車線変更をするとき、まわりの何人かのドライバーがため息をつきながら、あるいはあまり褒められない言葉を口にしながら、ブレーキ・ペダルをいくぶん強めに踏んでいることには、あまり気がついていないようだった。
 もちろんどちらの側にも属さないものもいる。乱暴すぎもせず、慎重すぎもしない、ごく普通の運転をする女性たちだ。その中にはかなり運転の達者な女性たちもいた。しかしそんな場合でも家福は、彼女たちからなぜか常に緊張の気配を感じ取ることになった。何がどうと具体的に指摘はできないのだが、助手席に座っていると、そういう「円滑ではない」空気が伝わってきて、どうも落ち着かなくなってしまう。いやに喉が渇いたり、あるいは沈黙を埋めるために、しなくてもいいつまらない話を始めたりする。
 もちろん男の中にも運転の上手なものもいれば、そうでないものもいる。しかし彼らの運転は多くの場合、そういう緊張を感じさせない。とくに彼らがリラックスしているというわけではない。たぶん実際、緊張もしているのだろう。しかし彼らはどうやらその緊張感と自分のあり方とを自然に――おそらくは無意識的に――分離させることができるみたいだ。運転に神経を使いつつ、その一方でごく通常のレベルで会話をし、行動をとる。それはそれ、こちらはこちらという具合に。そのような違いがどこから生じるのか、家福にはわからない。
 彼が男性と女性を区別して考えることは、日常的なレベルでは多くない。男女の能力差を感じることもほとんどない。家福は職業柄、男女ほぼ同数の相手と仕事をするし、女性と仕事をしているときの方がむしろ落ち着けるくらいだ。彼女たちはおおむね細部に注意深く、また耳がよい。しかし車の運転に限って言えば、彼は女性が運転する車に乗ると、隣でハンドルを握っているのが女性であるという事実を常に意識させられた。しかしそのような意見を誰かに語ったことはない。それは人前で口にするには不適切な話題であるように思えたからだ。