第151回芥川賞候補その3 - 柴崎友香「春の庭」

 二階のベランダから女が頭を突き出し、なにかを見ている。ベランダの手すりに両手を置き、首を伸ばした姿勢を保っていた。
 太郎は、窓を閉めようとした手を止めて見ていたが、女はちっとも動かない。黒縁眼鏡に光が反射して視線の行方は正確にはわからないが、顔が向いているのはベランダの正面、ブロック塀の向こうにある、大家の家だ。
 アパートは、上から見ると、〝﹁〟の形になっている。太郎の部屋はその出っ張った部分の一階にある。太郎は中庭に面した小窓を閉めようとして 二階の端、太郎からいちばん遠い部屋のベランダにいる女の姿が、ちょうど目に入ったのだった。中庭、と言っても幅三メートルほどの中途半端な空間で雑草が生えているだけ、立ち入りも禁止である。アパートと大家の家の敷地を隔てるブロック塀には、春になって急激に蔦が茂った。塀のすぐ向こうにある楓と梅は手入れがされておらず、枝が塀を越えて伸びてきている。その木の奥に、板張りの相当に古い2階建てがある。いつも通り、人の気配はない。
 女に視線を戻す。まったく同じ位置を保っている。一階の太郎の部屋からだとブロック塀に遮られて屋根ぐらいしか見えないが、二階からなら大家の家の一階や庭も見えるには違いない。しかし、そんなに変わったものがあるとも思えない。大家の家は、赤く塗られた金属板の屋根も焦げ茶の壁板も、傷みが目立つ。一人で住んでいた大家のばあさんが介護施設に入所して、もう一年になる。家の前を掃除するのを見かけたときは元気そうだったが、八十六歳になるらしい。不動産屋から聞いた。
 屋根の先には、空と雲が見えた。朝からよく晴れていたが、雲が出ている。真っ白の塊。まだ五月だが、真夏のような雲だった。ああいう雲は何千メートルの高さがあるって言うな、と太郎は雲の盛り上がって飛び出しているところを見た。空の深い青とコントラストが強すぎて、目の奥が痛んだ。
 雲を眺めていると、太郎は、雲の上にいる自分を想象した。いつもした。長い長い距離を歩いてやっと雲の縁にたどり着き、そこに手をついて下を眺めている。街が見える。数千メートルも隔たっているのに、細かく入り組んだ街路の一本一本、ひしめき合う一軒一軒の屋根も、鮮明に見える。道路を極小の虫のような自動車が滑っていく。街と自分の間の空間を、小型飛行機が横切る。そこだけアニメの絵だ。ガラスの覆いがついた操縦席には誰もいない。音もない。飛行機だけでなく、どこからもなんの音も聞こえない。ゆっくりと立ち上がると、空の天井に頭がつっかえる。誰もいない。
 そこまでの一連が、幼い頃から必ず浮かぶ光景だった。二階端のベランダを見る。さっきはなかった白い四角形い一部が見える。いつのまに。女は、手すりのところに画用紙、いや、スケッチブックを置いていた。木でも描いているのか。ベランダは南向きで、庇はない。今は午後二時。随分眩しいに違いない。
 女は時折、身を乗り出した。そのときだけ、顔が見えた。眼鏡に短いおかっぱ頭。二月に引っ越してきた。何度かアパートの前でも見かけたことがあるが、三十歳過ぎ、自分と同じか少し年下といったところ、と太郎は見当をつけていた。背が低く、いつもTシャツやスウェットなど代わり映えのしない格好をしている。画用紙の向こうで、ぬーっと女の首が伸びる。頭をこちらに向かって傾ける。太郎は、そのときになってようやく、女が見ているのが正面の大家の家ではないと気づいた。太郎の部屋がある方向、大家の隣の家。水色の家。
 ぴーっ、ぴーっ、と鳥の甲高い鳴き声と、枝葉が擦れ合う音が、突然響いた。次の瞬間、女と目が合った。太郎が目を逸らすより前に、女はスケッチブックごと引っ込んだ。サッシが閉まる音がした。それきり出てこなかった。


 水曜の夜、仕事を終えて帰宅すると、アパートの外階段の上に二階の住人がいた。先日ベランダにいた女ではなく、その隣の部屋の住人。随分前から住んでいるらしい。太郎の母親より少し年上に見える女。太郎の住むアパート「ビューパレス サエキⅢ」は一階と二階に四部屋ずつあり、部屋番号ではなく干支がふってある。玄関側から見て、太郎のいる一階左端から右へ順に、亥、戌、酉、申、二階へ上がって未、午、巳、辰。今時は表札にもポストにも名前は出さないところが多い。この人は「巳」室なので、太郎は「巳さん」と認識していた。顔を合わせると必ず声をかけてくる、愛想のいい人だった。
 巳さんは、階段の上から一階を窺っていたが、太郎が玄関前に立つのを見計らって、降りてきた。いつも頭の天辺で髪をまとめ、着物をリメイクしたらしい変わった形の服を着ている。今日は亀柄のもんぺに、黒いシャツ。
「あのー、鍵を落としませんでしたか?」
「えっ、鍵?」
 太郎は思わず自分の手元を見た。鍵はしっかりと握られている。
「これ……」
 巳さんが顔の前にかざした、茸のフィギュアがついた鍵には、確かに見覚えがあった。
「朝、ここに落ちてたんです。でも、持ってらっしゃいますね、鍵」
「それは事務所の鍵です。会社の。家に忘れてきたんだと思って。ありがとうございます」
「あー、よかったです、こんなおばさんが突然鍵なんか持ってきたら怪しまれるんじゃないかと思って心配でした。取ったんじゃないですよ、ほんとに落ちてたんですよ」
「だいじょうぶです、ありがとうございます」
 巳さんは近づいてきて、鍵を差し出す。太郎は受け取る。とても背の低い巳さんは、太郎の懐に入り込むように見上げた。
「じゃあ今日はお仕事できなかったんですか?」
「……あ、いえいえ、会社はぼく一人じゃありませんから、ほかにもいますから」
「ええ、あー、そりゃそうですね、ばかですよね、わたし。すみませんでした」
「いえ」
 太郎は、鞄の中にままかり味醂干しが入っているのを思い出した。出張帰りの同僚の土産だが、太郎は魚の干物が全般に好きではなかった。
「これ、よかったら。お礼っていうほどでもないですが」
 巳さんは、好物なのだと大変によろこんだ。そんなによろこばれては申し訳ないと思うほどのよろこびようだった。ありがとうございますありがとうございますと繰り返しながら、跳ねるように階段を上がっていった。
 太郎は、巳さんから渡された鍵を見た。茸のフィギュアはカプセル入り玩具の販売機で自分が買ったものだった。しめじ。しかし、エリンギもついていたはずである。ものをなく

文学界 2014年 06月号 [雑誌]

文学界 2014年 06月号 [雑誌]

柴崎友香(しばさき ともか)
1973年大阪府生まれ。97年大阪府立大学総合科学部卒業。短編「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」99年文藝別冊8月号「J文学をより楽しむためのブックチャートBEST200」でデビュー。

〈作品〉『きょうのできごと』2000年河出書房新社刊。『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』01年河出書房新社刊。『青空感傷ツアー』04年河出書房新社刊。『ショートカット』04年河出書房新社刊。『フルタイムライフ』05年マガジンハウス刊。「その街の今は」06年新潮7月号=第136回芥川賞候補、単行本は06年新潮社刊=第57回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞、第23回織田作之助賞大賞受賞、06年度咲くやこの花賞受賞。『また会う日まで』07年河出書房新社刊=第20回三島由紀夫賞候補。「主題歌」07年群像6月号=第137回芥川賞候補、単行本は08年講談社刊。『星のしるし』08年文藝春秋刊。『ドリーマーズ』09年講談社刊。「ハルツームにわたしはいない」10年新潮6月号=第143回芥川賞候補(『週末カミング』12年角川書店刊に収録)。『寝ても覚めても』10年河出書房新社刊=第32回野間文芸新人賞受賞。『ビリジアン』11年毎日新聞社刊=第24回三島由紀夫賞候補。『虹色と幸運』11年筑摩書房刊。『わたしがいなかった街で』12年新潮社刊=第25回三島由紀夫賞候補。『星よりひそかに』14年幻冬舎刊。