第152回芥川賞候補その5 - 高尾長良「影媛」

 波波迦の木の葉がゆっくりと揺れている。彼女は襲衣おすいを肩まですべし、爪立って黒葛つづら巻の細刀を波波迦の木の枝に当て、押し切った。
 宙に舞う糠の様な粉を払い退け、腰の帯に枝を挟み入れて彼女は手近の枝へと移った。
 直截な尿ゆまりの臭いが樹々の間を破る。にこやかな尾が、逆しまへ樹を駆け上がる中途で、風をはらんで高く揚がったまま静止する。樹々の内を探る栗鼠の二粒の眼が疾くぴ、ぴと四方へ奔り動く。其の先に、灰色の線がついと宙を掻き乱し、其の風に煽られて羽撃はたたきながら枝に停まる。枝の縁に堅い鉤爪を食い入らせると、烏は頑丈な嘴を開け、一声啼き、光る翼を拡げて幾許いくばくか飛ぶと、再び枝に停まる。
 葉の間に青い衣がちらと見え、彼女は咄嗟に樹の後に身を隠した。物部もののべの館を出て来てから何刻も経っているだろう。宮の舎人とねり等が布留川に沿って歩んでいるのだった。先の大王おおきみかむあがってから未だ一ト月も経っていない。未だ続いている殯宮もがりのみやへ、闘鶏つげの氷室の氷を運んでゆくのだ。
 一塊の雲の様な力強い香りが、れては消える事を繰り返している。一本一本の樹の脇を抜ける度に、萌したばかりの小さな葉と、萎み果て老いた葉の臭い、樹皮、木の実の香り、全てが雑ざり合い、甕の中に置いた蛇の様に深く沈み入り、やがて、く頻く降り注ぐ雨の音を貫く一ツの声が浮かび上がる。まるで彼女自身の奥処で語っているかの様だ、と彼女は思う。瞬く間に数多の声が顕れ出る。年を経た樹の幹、若草の茎の内を貫く管、葉の表裏に縫い廻らされた筋、ことごとくが語っている。樹々の気、獣のうたき、鳥の声、山野に木霊するあらゆる韻が、彼女の眉間を搏ち叩き、胸の内で心の臓の鳴りの芯を僅かずつ造ってゆく。あたらしくあらたかな其の声は、物部の館の一室で女等を前に神寄せを執り行う時、彼女に憑いて喋る御祖みおやの詞とは懸け離れている。彼女は愧じる様に頸を振り、波波迦の木の枝をたわませて細刀を当てた。
 俄かに、間近で絞め付けられた様な叫び声が上がった。
 川の辺の一処にはしため等が身を寄せ合い、石の様に立ち竦んでいる。川の辺に晒していた布や衣を取り入れに来たらしく、幾人かは蝶の羽の様なうすものを掴み、一人は畳んだ布を堆く腕の上に積み上げたまま、遠い樹の間をっと見詰めている。彼女は樹の間から走り出、高く声を上げた。
――みずちかや。
 婢等は振り返るが、険しい巌を登っている様にせまった息を吐くばかりで何も云えずにいた。
――かの峯の間。青きものの、飛び行きたり。
 一人の婢が唇を震わせて云うと、もう一人の婢が声を上げて頭上に輝く陽に乞う様に腕を差し伸べた。
――ひめ。言べ。
 幾つもの喉が音を立てて劇しく息を吸い込み、口々に昂ぶった声を上げる。
――完きかんなぎなれば、知り給うらん。
――媛。
――青きものの、ゆらゆらと行きたるを。
――其の波波迦の木にて、太占ふとまにに占い給え。
 物部の女の中で、巫として彼女に並ぶ者は無い。彼女は岸まで歩み出、峯に眼を凝らした。何も見えない。
 彼女は低く云った。
――先の大王の魂ならん。
 婢等は面を見交わした。彼女は言を探りながら川水の面に眼を落し、思わず瞬いた。水に浸かった一ツの石の上で、小さな翡翠色のものが陽の光を反した。水に映っている彼女のすずの様に細い眼が揺らぎ、面が幾ツもたたなわると瞬く間に水の面を白い泡が覆い尽くし、やがて静かに均されていった。
――未だ大王が魂の、彷徨い給える徴なり。彼の大王が御父も、其のまた御父も、崩りましてより埋み果て奉るまで、等しき色合の影ぞ峯を往けると聞きたり。
 背の後で、婢等が黙り込むのが分かった。闇雲の怯えが静かな畏れへと静まった様だった。彼女は屈んで翠の柔らかなものを拾い上げ、婢等から離れながら呟いた。
――如何なる魂も、うごもちし土の下にはいまさず。
 生い茂った樹の間に入ると、涼しい風が膚に触れた。彼女は一度包み込んだ掌を開けた。翠鳥そにどりは眼を閉じていた。傷の無いわかい羽根が根蓴菜ぬなわの様に長くしっとりと張り付き、橙の腹は未だ息づいていた。頸を指で挟むと、緩と締め付けた。鋭く長い上嘴から、一房の白い羽が生えた耳元にかけて長細い裂け目が浮き出し、黒い血が徐々に滲んで赤い足が宙を蹴り始めた。彼女は息を止めて指の尖に力を込め、食い込ませた。手纏たまきに纏いた玉釧たまくしろが膚の上で冷たく緊まる様に感じた時、小さな躰からふうと力が抜けた。
 彼女は屍を地に落とした。歩み出そうと、面を上げるなり立ち竦んだ。
 五本の樹を間にして、長すぎる裳を地に引き摺って立った女童が、火照った頬を樹に押し付けて此方を視ていた。同母妹いろもだった。不意に妹は手を上げ、生れた時から見えない右眼を擦った。妹は笑んでいる様だった。彼女は背を向け、歩み出した。次第に足が速まっていった。布留川から引いている水を満々と湛えた石上溝いそのかみのうなでを横に見ながら、部の館と数多の室、刀一千ふりを納めている総柱の庫の間を縫って館に戻った。
 身舎もやの廻りには邪を祓う赤土はにが散らされ、そこはかとなく椿油の匂いが漂っていた。室に入ると、母は、長い金の耳飾を付けながら彼女を仰いだ。
――影媛。神寄せの刻なり。
 彼女が憑き神となって御祖を降ろし、物部に伝わる詔琴のりごとを弾く事は、一月前に大王の崩ってから毎日の様に続いていた。彼女が枝を母に渡すと母はわらって呟いた。

新潮 2014年 12月号 [雑誌]

新潮 2014年 12月号 [雑誌]

高尾長良(たかお ながら)
1992年東京都世田谷区生まれ。京都大学医学部在学中。

〈作品〉「肉骨茶」2012年新潮11月号=第148回芥川賞候補、第44回新潮新人賞受賞(単行本は13年新潮社刊)。