第154回芥川賞受賞作2 死んでいない者 - 滝口悠生

 川からそう離れていない畑のなかの一軒の家にはまだ明かりが点いていて、砂利敷きの庭に屋内から漏れる蛍光灯の白い明かりが漏れてぼんやりと照っている。
 庭に面した緑側で機材を前にあぐらをかきヘッドフォンをした美之は、今さっき寺から響いてきた鐘の音を録音することに成功した。
 庭のそこここで嗚く虫の声や、遠く街道を走り去る中の音とともに、音になってしまえば出処のわからない、微かなタッチのあと延び広がるように長く続く鐘の音が記録されていた。
 全部吐き切ったのか案外すっきりした顔つきで戻ってきた英太が、何してんの? と美之の背後から声をかけ、その声も録音された。
 畑の間の道をその家の方向に向かって動く小さな懐中電灯の灯りは、集会所から歩いて帰っている途中の美津子と吉美と多恵だった。
 鐘が鳴ったのには三人とも気づいたが、はじめは別に不思議とも思わず、やや間があってから、やだ、なんでこんな時間に鐘が嗚ってるの、と言ったのは吉美だった。
 すると美津子も多恵も、あら、やだ、なに、怖い、なに、と呟き、呟いているうちにも急激に恐怖が増してきて、怖い怖い怖い怖い! と半ば叫びながら家に向かって駆け出した。
 持っていたビニール袋をひとつ吉美が落っことして、パックに詰めた寿司が道に散らばった。そんなこと構わずに三人は夜道を駆けていく。またひとつ鐘が打たれて嗚った。
 やだやだやだ怖い怖い怖い!
 散らばった寿司はあとで猫が食べにくる。
 集会所に残って酒を飲んでいた男たちは、しゃべっていたから鐘の音にはあまり気づかず、二度めが打たれた時に、一日出が、なんか寺の鐘が鳴ってるな、と呟いて、勝行と憲司と崇志がしゃべるのをやめて外の音に耳をすませた。
 ほんとだ。
 誰だい、こんな時間に。
 じいさんだったりして。
 ははは。
 春寿と涼太は並んで眠っていて、鐘の音に気づかない。
 崇志を集会所まで送ったあと、そのまま実家に戻るつもりだったが、ふと思いついてちょっとドライブしてから帰ろうと国道に出て、ほとんど車の走らない道をいくぶん飛ばして移動していた奈々絵にも、鐘の音は聞こえなかった。
 県内のFMラジオで古いヒット曲が流れている。ノリだけよくって歌も歌詞も馬鹿みたいな曲に合わせて、フォー! などと車内で叫んだり、頭を揺らしたりしていた。DJが、今の曲は一九七九年のヒットナンバー、と紹介し、自分の生まれた年だ、と奈々絵は思う。ということは、今日も葬式に来なかった寛の生まれた年でもあった。
 寛とはまともにしゃべったことがない。最後に見たのはおばあさんの葬式の時だ。一日出と結婚して間もない頃で、森夜を産んですぐの頃だった。一日出から、おもしろい甥がいる、奈々ちゃんと同い年の、とは聞いていた。そのおもしろさが時に、というかしばしば、面倒な事態を引き起こしているという話も聞いていた。
 結局まともに関係を結ぶことはなく、そのおもしろさも面倒くささも知らないまま奈々絵は今に至っているわけだが、火葬場で土下座したり、そのあと泣きながらいちばん最後にお骨を拾って骨壺に入れていた姿はなんというか忘れられなかった。あの時一緒に来ていた理恵子とは、きっともう二度と会わない。死ぬまで一度も会わない。
 理恵子はお骨を拾わなかった。拾ったってよかった。誰も拒んだり、止めたりはしなかったはずだ。しかし彼女も遠慮したわけじゃなくて、いや、遠慮もしたのかもしれないが、体調が悪かった。彼女はあの時浩輝を妊娠していたはずで、時期的につわりがあっておかしくない 火葬場の入り口に立っている姿や、その後親類が飲み食いしながら遺体がお骨になるのを待っている隅でお茶を飲もうとしたり、ためらったりしている姿を見て、妊娠しているのではないか、と思ったのをよく覚えていて、けれどもそんな確かでもないことを誰に言うわけにもいかないし言う気にもならず、初対面なので気安く話しかけることもできず、それ以前に生まれたばかりの森夜の面倒で手が離せなかった。
 あれがまさか最後になるとは思わなかったから、今から考えればちょっとでも何か話しかければよかった この家に嫁いだという点では、似たような立場でもあったのだし。
 しかしそんなこと、十何年後の今日、お葬式の夜に車を飛ばしながら考えたってしょうがない。寛も理恵子も、どこで何をしているやら。いろいろ事情はあるにせよ、自分も二児の親として、ふたり揃って子どもを放り出したことには、まったく同情できない。しかし大切なのは自分が同情できるかどうかなんかではなく、そんなことは寛たち親にとっても、浩輝たち子にとってもどうでもいい、私の同情の多寡などは、どうでもいい。
 早い速度で走り続ける車は、とうに町を出て、山間の地形に沿って曲がりくねる国道をどんどん進んでいく。奈々絵の視界にはフロントガラス越しに暗い、先は何も見えない闇が次から次へと現れ、そこを切り裂くように街灯の光が一定の間隔で現れては過ぎていき、自動車のライトはわずか先の道とその路面とを照らし続けた。
 続いても一九七九年のナンバー。
 妖しげでキャッチーなフレーズが奈々絵の体をまた揺らす。同じような視界が、聞こえてくる音でリズムとともに流れ動く絵になる。今夜、熱い男を求めてる。誰でもいいから熱い男が必要。ドナ・サマーの扇情的な歌声と、やはり深みのない単純な歌詞の歌が続いた。
 今日の日付を名前につけられた音源が、もう間もなくインターネット上にアップされる。美之の弾き語るテレサ・テンの代表曲に、謎の鐘の音がいくつも重なって鳴り続ける そこには途中、何してんの? という英太の声も入っているし、遠く国道を群馬方面に走り続ける奈々絵の自動車の音だって、よく聞けばはっきりと記録されているのだ。


滝口悠生 たきぐち・ゆうしょう
1982年10月18日東京都生まれ。埼玉県育ち。2011年「楽器」で第43回新潮新人賞を受賞してデビュー。15年『愛と人生』で第37回野間文芸新人賞受賞。

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