岩波講座世界歴史〈第1〉古代 1 (1969年)

   総  説

杉 勇
    I 一つの歴史的世界としての「オリエント」
 東は現在のパキスタンから西はボスポロス海峡及びナイル川峡谷に限られ、北は黒海、カウカスス山脈とイラン高原の北麓を境とし南はアラビア半島を含む地方、ほぼ北緯一〇度から四〇度くらいの間、わが北海道から台湾をやや南下したあたりの地域は、今日政治的・地域的には「近東」もしくは「中近東」とよばれているが、歴史的には適当な名称がないため、「オリエント」と仮にとなえられている。歴史的名辞としての「オリエント」は、もちろん時代によりその領域は広狭の差があるけれども、長い歴史のうちでは、右の地域がほぼ常に核心となっている。イスラム帝国時代には、西はモロッコ・スペインを含んで大西洋に及び、東はインド東部、東パキスタンにまで及んだことがあったほどである。
 現代ヨーロッパ諸語に広く共通して用いられている「オリエント」という語は、元来ラテン語の「起る、立つ、(太陽の)昇る」などの意味をもつ動詞 orior の名詞形「オリエンス」oriens に由来するもので、はじめはイタリア半島を中心としてその東を意味したものである。したがってラテンの諺「光は東方より」Ex oriente lux も元来ローマがギリシアに負うところが多いことを意味したものであった。「オリエンス」の語も、地理的・政治的に意味が拡大されていくに従ってその指す範囲も拡大されていったのであるが、元来はローマ帝国領の極大限時代のティグリス川を境とし、あるいはそれに隣接するイラン地方をも含む意味に用いられたものである。したがって歴史用語としての「オリエント」は、今日一般に使われている、拡大された全アジアを含む意味での「オリエント」=東洋とは意義と内容を異にしていることを注記しておきたい。


 「オリエント」は、世界史上において「ヨーロッパ世界」や「東アジア世界」とともに、一つの完結した歴史的世界をなしている。この世界の歴史は、「ヨーロッパ世界」や「東アジア世界」とは全く独立して生成・発展をとげてきたもので、他の二つの歴史世界とは全く異質な独特な歴史的世界をなしている。
 これまでオリエント世界は、「東アジア世界」や「ヨーロッパ世界」の歴史を説くに当って、ただそれぞれに関連のある場合にのみとり上げられたり言及されてきて、むしろ他の歴史的世界を説くに当ってそれぞれ他の歴史的世界の立場から寸断された形でのみ説かれてきたのであった。すなわち、「唐代のイスラム世界」とか「十字軍時代の西アジア」といったように扱われ、オリエント自体の立場では説かれなかった。そのことは、これまで長い間にわたり、世界史の立場から説かれた「オリエント史」に関する著書が一つもあらわされていないことを見ても、よくわかる。かつて国別ないしは地域別に説かれたヘルモルトの『世界史』 Weltgeschichte においても、「西アジア史」は一貫した歴史性が全く顧みられずに述べられているのでも明らかである。一九六〇年にいたってはじめてヒッティによって『歴史上の近東』(P.K. Hitti, The Near East in History, Princeton, 1960)があらわされたのが、最初の試みである。
 「オリエント世界」が一つの完結した歴史世界である以上、そこには古来からの時代区分がなされなければならない。ヒッティは、著書を六部にわかち、「先文字時代」「古代セム時代」「グレコ・ローマン時代」「イスラム時代」「近代――オットマンペルシア人」「アラブ諸国」としている。しかし「古代セム時代」とはきわめて不適切な表現であり、「グレコ・ローマン時代」は時代の盾の半面をみているにすぎない。筆者は、オリエント史は古代・中世・近世に三大別されるものと考える。そして、古代は、前三三〇年のアレクサンドロス大王によるペルシア帝国の征服までの、いわゆる古代オリエント文化、本来的なオリエンタリズムの時期とみる。中世は、オリエント世界の西半はギリシア・ローマ的世界であり、東半はイスラニズム、すなわち前代のオリエンタリズムの伝統的世界であって、あたかも西洋中世におけるローマン的・ゲルマン的世界の成立・発展によく似ているといえる。イスラム世界の成立・発展は、新しい意味でのオリエンタリズムの時代であり、さきの二つの時代をうけついだ近世ということができよう。この三時期法は、オリエント世界の主要な時期区分の基準として提示したが、さらに適宜これらを細分して考えることができるであろう。
 なお、この時代区分についてはいろいろな用語が考えられ、筆者がここで用いている用語はかならずしも学界で共通のものになっていないが、オリエント史を独自な歴史的世界の歴史的発展としてとらえなければならないということが、ここで述べたことの主眼である。


《執筆者紹介》

杉  勇 1904年生 東京帝国大学文学部卒 明治大学文学部教授 『楔形文字入門』(中央公論社)、『古代東南アジア史』(平凡社
川村喜一 1930午生 早稲田文学文学部卒 早稲田大学文学部助教
屋形禎亮 1937年生 東京教育文学文学部卒 東京教育文学文学部助手
山本 茂 1929年生 京都大学文学部卒 京都府立大学文・家政学助教
前川和也 1942年生 京都大学文学部卒 京都大学人文科学研究所助手
黒田和彦 1935年生 東京教育大学文学部卒 東京大学東洋文化研究所助手
岸本通夫 1918年生 東京帝国大学文学部卒 大阪大学教養部教授 『古代オリエント』(河出書房)
中山伸一 1929年生 横浜市立大学経済学部卒 オリエント学会会員
佐藤 進 1930年生 東京教育大学文学部卒 東海大学文学部講師
並木浩一 1935年生 国際キリスト教大学教養学部卒 国際キリスト教大学教養学部講師
関根正雄 1912年生 東京帝国大学文学部卒 東京教育大学文学部義授『イスラエルの思想と言語』(岩波書店

太田秀通 1917年生 東京帝国大学文学部卒 東京都立大学人文学部助教授『ミケーネ社会崩壊期の研究』(岩波書店
藤繩謙三 1929年生 京都大学文学部卒 大阪府立大学教養部助教授『ホメロスの世界』(至誠堂
清永昭次 1927年生 東京都立大学人文学郎卒 学習院大学文学部助教
安藤 弘 1925年生 東京大学文学部卒 新潟大学教養部助教
岩田拓郎 1930年生 東京文学文学部卒 北海道大学文学部助教

目次
序言
古代オリエント世界
総説(杉勇
1一つの歴史的世界としての「オリエント」/2オリエント世界における歴史の黎明/3オリエント世界形成期の諸民族/4古代オリエントの文化と社会/5古代オリエント史の流れ
1 古代オリエントにおける灌漑文明の成立(川村喜一)
  一 灌漑文明の成立と政治的社会の形成
古代オリエントにおけるメソポタミアとエジプト/2文明の起源について/3灌漑と政治的社会の形成
  二 メソポタミアにおける灌漑文明の成立
1村落共同体の形成と発展/2村落共同体の崩壊/3都市文明の成立と「シュメール人問題」
  三 エジプトにおける灌漑文明の成立
1村落共同体の成立と発展/2村落共同体の崩壊と統一王朝の成立
2 「神王国家」の出現と「庶民国家」(屋形禎亮)
  はじめに
  一 統一国家の形成
     ――神王の出現――
  二 神王国家の形成と発展
     ――初期王朝時代と古王国前期――
1初期王朝における王権観の発達/2初期王朝の国家/3古王国前期における王権観の発展/4古王国前期の国家と社会
  三 神王国家の解体
     ――古王国末期と第一中間期――
1古王国末期における発展/2第一中間期と社会革命
  四 庶民国家の時代
     ――中王国時代――
1王権観の変化と庶民の擡頭/2中王国の国家
3 シュメールの国家と社会(山本茂/前川和也
  はじめに
  一 海外におけるシュメール社会研究の動向
  二 初期のシュメール都市国家
  三 都市国家時代末期のラガシュ
1ラガシュ文書の特質と大麦支給/2エ-ミ組織の発展/3都市と「組織」
  四 ウル第三王朝時代の社会
4 ハンムラピ時代の国家と社会(黒田和彦)
  一 古バビロニア時代
  二 古バビロニア時代の政治的変化
1イシン・ラルサ時代/2バビロン第一王朝時代
  三 古バビロニア時代の社会
1社会階級/2ムシュケヌム/3アウィルム/4ワルドゥム(アムトゥム)
  四 バビロン第一王朝の支配体制
1王権/2王室領/3神殿/4都市と商人/5貢租と賦役
  五 ハンムラピ法典と司法制度
1ハンムラピ法典/2司法制度
   むすび
5 印欧語族の移動とヒッタイト王国の擡頭(岸本通夫
  一 発見・発掘・解読
1ボガズ - キョイの発掘/2カッパドキア文書のこと/3象形文字ヒッタイト語の解読
  二 印欧語民族の移動
1印欧語民族の役割/2印欧語民族の原住地とアナトリア語派の諸族の移動/3インド・アーリア人などの移動
  三 ヒッタイト王国の略史
アッシリア商人の活動、小国分立時代/2ヒッタイトの古王国および新王国/3北シリアの小王国
  四 ヒッタイト史の諸問題
1鉄器の起源/2馬と戦車/3王国の社会構造と外交政策/4その他の問題
  五 アッヒヤワ問題
1問題の始まり/2問題の新展開/3ルウィ族のアルツァワ王国
6 イク=エン=アテンとその時代(屋形禎亮)
   はじめに
  一 帝国の形成
1ヒュクソスのエジプト支配/2独立の回復と対外進出/3帝国の建設/4植民地の支配体制
  ニ イク=エン=アテンの「宗教改革
1第十八王朝前半における王と国家/2王とアメン神官団の対立/3改革のはじまり/4イク=エン=アテンとアテン信仰/5アマルナ芸術/6アマルナ時代の国際関係/7改革の終末と信仰復興
7 エジプト新王国の社会と経済(中山伸一)
   はじめに
  一 奴隷
1エジプト奴隷制度の特徴/2古文書に現われた奴隷/3奴隷の種類/4公的奴隷所有/5私的奴隷所有/6奴隷の法的地位
  二 土地所有(公的土地所有)
1神殿領/2王室頷/3小作人/4公的土地所有体
8 世界帝国の成立とその構造
   ――アッシリア帝国からペルシア帝国ヘ――
  一 アッシリア帝国杉勇
アッシリアの地理的・文化的状況/2世界帝国成立以前/3アッシリア帝国の支配機構/4アッシリア帝国の社会と経済
  二 四国対立時代(杉勇
1メディア王国/2リュディア王国/3新バビロニア王国/4エジプトにおけるサイス王朝の繁栄と復古精神
  三 アカイメネス朝ペルシア(佐藤進)
1初期パールサ社会/2ペルシア帝国形成期の諸問題/ペルシア帝国の支配構造/4ペルシア帝国の没落
9 東地中海沿岸諸国の隆替(並木浩一)
   ――前一二〇〇年まで――
   はじめに
  一 シリアと諸民族
  二 政治的世界におけるシリア
1シリア内陸諸国家/2シリア海岸諸都市
   むすび
   補論「海の民」について
10 イスラエルにおける政治と宗教(関根正雄)
  一 序論――問題の所在
1研究の観点と方法/2古代オリエントイスラエル
  二 王国成立以前
1アンフィクチオニー(宗教連合)/2契約思想の形成/3王としてのヤハウェ
  三 王国時代
1王国否定の思想/2サウル王国成立の記述をめぐる問題/3王国時代の政治と社会/シナイ契約とダビデ契約/5王国滅亡後の問題点

地中海世界
  総説(太田秀通)

地中海世界の概念/2地中海世界の歴史的前提/3地中海世界の成立/4地中海世界の崩壊
1 エーゲ文明とホメロスの世界(太田秀通)
  一 エーゲ文明
1エーゲ考古学の成立/線文字A・Bの解読
  二 線文字B文書の社会
1ピュロス王国の社会構造/2ミュケナイ社会の特徴
  三 前二千年紀の東地中海世界
1東地中海世界の存在の発見/東地中海世界の崩壊
  四 ホメロスの社会
1史料としてのホメロス叙事詩/2「ホメロス社会」の構造
  五 ポリス社会への展望
1東地中海世界崩壊後の発展/2ポリス社会形成の前提
2 ポリスの成立(藤繩謙三)
  一 ポリス形成の理論
1ポリスの概念/2シュノイキスモス/3部族制/4家の構造
  二 歴史的背景
1宮殿経済から農業国家へ/2社会的分業/3戦士共同体
3 貴族政の発展と僭主政の出現
  一 国制推転のダイナミズム(清永昭次)
1貴族政の構造と歴史的位置づけ/大植民運動と貴族政の動揺/3立法者・調停者・前期僭主
  二 重装歩兵制の発展と貴族政社会(安藤弘)
はじめに/1重装歩兵制の発展/2重装歩兵の階級的性格/3貴族政の発展
4 アテナイとスパルタの国制(岩田拓郎)
  一 アテナイの場合
1貴族支配体制の確立/2貴族制下の平民の位置/3ソロンの改革、僭主制から民主制へ
  二 スパルタの場合
1初期の国制/2民会の優位
   むすび