現代イタリアの思想をよむ - 上村 忠男
- 作者: 上村忠男
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2009/03/10
- メディア: 文庫
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以下は、増補された論考のひとつ「法の〈開いてる門〉の前で」の冒頭である。
ゲルショム・ショーレムは、『カバラとその象徴的表現』一九六〇年)の第一章に配されている論文「宗教的権威と神秘主義」(一九四九年)のなかで、タルムード時代のユダヤ教神秘主義においてきわだった特徴をなしていたのは「啓示を解く鍵を求めようとする無限の衝動」であったと述べている。そして、オリゲネスの「詩篇」注釈に紹介されている「あるヘブライ人学者」の話のうちにそれのひとつの確たる証拠を見てとるとともに、同じ衝動がフランツ・カフ力の著作にも認められると指摘している。
しかしながら、これはどうであろう。オリゲネスが伝えているヘブライ人学者の話というのは、つぎのようなものである。
オリゲネスの「ヘブライ人学者の話」が続く。
『聖書』は数多くの部屋をもった大きな家にたとえられる。そして、どの部屋の前にも、一本の鍵が置かれている。ところか、それは正しく合う鍵ではない。すべての部屋の鍵が取り替えられていて、部屋を開ける正しい鍵を見つけ出すことが、難しいか大いなる課題なのだ。
上村はここで一呼吸を入れ、疑念を挟む。
わたしたちがカフカの著作に確認することのできる事態というのは、はたして右のヘブライ人学者の言葉にうかがえるようなタルムード的伝統に連なるものなのであろうか。
そして、カフカの『審判』が引用される。
法の前に門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやって来て、法の中に入れてくれるようにと頼んだ。だが門番は、いまは入れるのを許すわけにはいかない、と言った。男は考え、それから、もっとあとになれば入ることを許されるのか、と尋ねた。「たぶんな。だが、いまはだめだ」と門番は答えた。法への門はいつもどおり開いたままだった。門番が脇へ寄ったので、男は中をのぞきこもうと身をかがめた。これを見て門番は笑って言った。「そんなに入りたいのなら、おれにかまわず入るがいい。だが言っておくが、おれは力持ちだ。しかも、おれは一番下っ端の門番にすぎない。中には部屋ごとに門番がいて、その力はどんどん大きくなっていく。このおれにしても三番目の門番の顔を見ただけで、すくみあかってしまうほどなんだぞ」。田舎からやって来た男は、こんなにも難儀だとは思ってもいなかった。法はだれにでも、いつでも接近できるはずだ、と考えていたのだ。
ここで上村は矛盾点を説明する。
オリゲネスの伝えるヘブライ人学者の話のなかでは、数多くの部屋をもった大きな家にたとえられた『聖書』のどの部屋も、扉に錠がかけられて閉まっている。そして、部屋の前には鍵が置かれているものの、それらはすべて取り替えられており、どれが正しい鍵なのか、判別がつかない。ひいては、部屋を開けるための正しい鍵を見つけ出すこと、つまりは釈義が課題となる。
ところが、カフカの寓話「法の前に」の場所には、門は開いたままになっている。鍵を見つけるまでもないのだ。それなのに、田舎からやって来た男は中に入ることができない・・・・・・。
この後、上村は、カフカの寓話「法の前に」についてのマッシモ・カッチャーリなどの解釈を紹介しながら、論を進めていく。
Ⅰ
- ベネデット・クローチェあるいは〈哲学の政治〉について
- 補論 哲学と科学のあいだ---「擬似概念」論の成立経緯
- 政治の科学と実践---ガエターノ・モスカの場合
- 1 危機の思想家としてのモスカ
- 2 「小心なリアリズム」
- 3 科学としての政治学の実現可能性
- 4 政治の科学の実際的効果をめぐって
Ⅱ
- 「流浪のイタリア」と移民たち---二十世紀イタリア・ナショナリズム小論
Ⅲ
- デーマルティーノにおける「西洋の危機」と呪術的世界への旅
- カルロ・ギンズブルグと民衆文化史の可能性
- 1 どうしてまた魔術へ
- 2 おもわざる出会い
- 3 方法上の諸特徴
- 4 残された問題
-実存主義から関係主義ヘ---エンツォ・パーチと関係主義的現象学への道
- ノルベルト・ボッビオ---夢の刈り入れ時の思想家
- ロスアンジェルスのギンズブルグ
- 1 距離に触発されての距離にかんする省察
- 2 エルスチールが海を描いたようなやり方で
- 3 証拠をめぐる論争の拡大と深化
- 4 世界全体がこれ異郷なり
- 閾からの思考---アガンベンと政治哲学の現在
- アガンベン読解のための第三の扉
- 新たな始まりとしての〈群島=ヨーロッパ〉
- 法の〈開いている門〉の前で
- スピノザ・ヴィーコ・現代政治思想
- グラムシのマルクス主義について
※青字は増補部分