自由への道 - サルトル

 もうひとつ、ぼくが学生時代にサルトルを読んだ理由は「アンガージュマン」(engagement)である。社会参加とは何かということだ。
 第2次世界大戦が終わった1945年の秋、サルトルメルロ=ポンティ、ボーヴォアール、レイモン・アロンらと雑誌「現代」を創刊し、サルトルがその編集長になった。このときサルトルが掲げたスローガンが「アンガージュマン」である。人間はそもそも自由な存在だと見られているが、サルトルはそうではなくて、人間は時代と社会の状況に“拘束されている”と見た。自由はこの拘束とぶつかることしか生まれない。そうだとすれば哲学者や学者作家も、時代状況と徹底してかかわっていくことからしか、その使命を見出せないのではないか。「現代」はそこを訴えようとしていた。
 サルトルは文学者としてもこの課題を実践すべきだと考え、ただちに大作『自由への道』にとりくんだ。哲学教師マチウ・ドラリュが第2次世界大戦下のパリで何かを「待機」していることを感じながらも葛藤に苛(さいな)まれ、最後になってふと気がつくと数人の兵士と教会の鐘楼に立てこもってドイツ軍をくいとめていたという物語である。
 大作のわりに面倒くさい出来の作品だが(つまりヘタクソな作品だが)、サルトルはその評判の如何にかかわらず、他方で戯曲『恭しき娼婦』を発表して、今度はアメリカの黒人差別の実態と白人の横暴の意識を娼婦の目で暴き、つづいて休むまもなく『文学とは何か』を問うて、作家にアンガージュマンを呼びかけた。日本でも江藤淳が『作家は行動する』を書いて、このサルトルの呼びかけに応えたものだった。
 ぼくの大学時代は、このアンガージュマンが大流行していたのである。「おい、松岡、あしたのデモにはアンガージュマンしろよ」というふうに。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0860.html
今週の本棚:鹿島茂・評 『自由への道 1』=サルトル


 (岩波文庫・798円)
 ◇二十一世紀的に蘇る成熟拒否の大作


 何年か前、サルトルの『嘔吐(おうと)』を読み返したら、時代が一回転したせいか、ひどく現代的な作品になっているのに驚いた。ヴァーチャルな世界で完結しているオタクが三次元の現実(マロニエの根っこ)を目の当たりにして吐き気を覚えるという物語として読むことができたからだ。


 では、四十八年ぶりに新訳が出はじめた『自由への道』はどんな読解が可能なのだろうか? 少なくとも、第一部「分別ざかり」は、成熟拒否の「アホロートル小説」として読み解くことができる。ちなみに、アホロートルとは、変態(原文ママ)の過程を経ず、幼形のままに成長する両生類。私は成熟拒否の若者たちをアホロートル命名しているのだ。


 しからば、「分別ざかり」とはどんな小説なのか? パリのリセで哲学教師をしているマチウは一九三八年六月の時点で三十四歳。恋人のマルセルとは七年も「妻問い婚」のようなかたちで関係が続いているが、両人とも「自由でいたい」という理由で結婚は拒否している。ところが、そんなとき、マルセルが妊娠してしまう。「どうします?」と問うマルセルにマチウは「そうだな……堕(お)ろしたら?」と答える。フランスでは、ボーヴォワール(マルセルのモデル)が先頭に立った妊娠中絶合法化運動が功を奏するまで、堕胎は犯罪だったから、恋人たちは非合法の医者や助産婦を探さなければならなくなる。要するに、よくある「妊娠小説」的な枠組みではあるが、そこはサルトルのこと、マチウの悩みも恐れも次のように「実存的」に表現される。


 「《マルセルは妊娠してる》。腹の中に、静かにふくれあがっていくどんよりとした小さな潮がある、いつかはそれが眼のようになるだろう。《そいつは腹の中にある汚物に囲まれて芽を出す、そいつは生きている》」。


 このあたり、なによりもタコやイカなどの軟体動物が嫌いだったというサルトルの胎児に対する恐怖がよく出ている。


 物語は、代訴人をしている兄ジャック、ニヒリストの男色家ダニエル、ポール・ニザンがモデルといわれる共産党の闘士ブリュネ、マチウの教え子であるボリスとその妹イヴィックなどが絡んで重層的に展開していくが、興味深いのは、自己拘束(アンガジュマン)に関する議論よりも、むしろ、歳(とし)を重ねることへの恐怖である。


 「しかし、こうしたことすべてを通じて彼の唯一の関心は拘束されない状態でいることだった。(中略)自分は他のところにいる、まだ完全に生まれてきてはいない、という気がいつでもしていた。彼は待っていた。そしてその間に、そっと、陰険に、歳月がやってきて、背後から彼を捉(とら)えた。三十四歳だ」


 これこそ、現代のアホロートルたちを捉えている感覚だろう。


 「分別ざかり」で唯一の大人は妻の持参金で代訴人の株を買って成功している兄のジャック。堕胎費用を無心に来たマチウにこう詰問する。


 「おまえときたら、どこかで不正があると聞くとすぐに憤慨するくせに、もう何年も前から相手を屈辱的な状態で束縛している。だけど、それは自分の主義に違(たが)わないと言える自己満足だけのためだ」


 若き日に読んだときは成熟拒否の弟マチウに肩入れしたが、いまでは兄のジャックが一番まともに思える。社会の全員がマチウになり、ジャックがいなくなってしまった時代だからかもしれない。新しい光源から光が当り、二一世紀的に蘇(よみがえ)ってくる二〇世紀の大作である。(海老坂武、澤田直・訳)

http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2009/07/20090705ddm015070002000c.html

第一部 分別ざかり


ワンダ・コザキエヴィッチヘ




 ヴェルサンジェトリクス通りの中ほどで、背の高い男がマチウの腕をつかんだ。向かいの歩道では警官がひとり行き来している。
 「いくらかくれよ、だんだ、腹ぺこなんだ」
 両眼が寄っていて、厚い唇から、アルコールの匂いがする。
 「むしろ飲みたいってことじゃないのか」とマチウが言った。
 「いや本当だよ、おっさん」と男はやっとのことで言った、「本当だよ」
 マチウはポケットの中に百スー硬貨(五フラン)があるのを見つけた。
 「どうでもいいのさ。ちょっと言ってみただけよ」
 マチウは百スーを渡した。
 「やってくれるね」と壁によりかかりながら男は言った、「すげえ願い事をあんたにしてやろう、何がいい」
 二人とも考え込んだ。マチウは言った。
 「あんたにまかせるよ」
 「じゃ、幸福を願っておくぜ」と男は言った。「そら」
 勝ち誇った様子で彼は笑った。警官が近づいてくるのを目にし、マチウは男が心配になった。
 「わかった、それじゃ」
 遠ざかろうとしたが、男はまた彼を掴まえた。
 「足りないな、幸福だけじゃ」と涙声で言った、「足りない」
 「じゃ、これ以上どうしようってんだ!」
 「あんたに何かやりたいのさ......」
 「物乞い容疑でぶち込むぞ」と警官が言った。
 非常に若く、真っ赤な頬をしている。厳しい態度を示そうとしていた。
 「もう三十分ち通行人に付きまとってるぞ」と自信なげに言い足した。
 「物乞いはしてない」とマチウは鋭く言葉をはさんだ、「話をしてるんだ」
 警官は肩をそびやかし、そのまま歩き続けた。男は覚束ない足どりでよろめいている。
警官の姿は目に入りもしなかったようだ。
 「あんたにやるものが見つかった。マドリッドの切手をやろう」
 ポケットから緑色の長方形の葉書を取り出し、マチウに差し出した。マチウは読んだ。
 「CNT連合新聞。エヘンプラーレス二番地。フランス。アナルコ・サンディカリスム委員会。パリ十九区、ベルヴィル通り、四十一番地」。宛名の下に切手が一枚貼ってあった。それもまた緑色で、マドリッドのスタンプが押されている。マチウは手を伸ばした。
 「ありがとう」
 「おいおい、よく見ろよ!」と男は怒って言った、「これは……これはマドリッドだぞ」
 マチウは彼を眺めた。男は感動した様子で、自分の考えを述べようと必死の努力をしている。とうとう諦めて、「マドリッド」とだけ言った。
 「たしかに」
 「あそこに行きたかった、本当に。ただ、うまくいかなかった」
 彼は暗い顔つきになった。「待て」と言って、切手の上をゆっくりと指でなぞった。
 「よし。持ってきな」
 「ありがとう」
 マチウは数歩歩いたが、男に呼び止められた。
 「おい!」
 「なんだい」。男は遠くから百スー硬貨を見せている。
 「今、百スーくれてよこした奴がいる。ラム酒をおごろう」
 「今夜はだめだ」
 マチウはかすかな未練を残しつつ遠ざかった。町なかをバーからバーヘとみんなで一緒にうろつきまわり、誰かれ構わず誘いに応ずることのできた、そんな一時期がかつて彼の人生にあった。今では終わりだ。あの手のことはなんの役にも立ちはしない。愉快な奴だ。スペインに行って戦おうと思ったことがあるんだな。マチウは歩を速め、苛々しながら思った。(いずれにしても、おれたちは何も話し合うことはなかったろう)。彼はポケットから緑色の葉書を取り出した。(これはマドリッドから来たんだが、あいつ宛のものじゃない。誰かが渡したに違いない。くれる前に何度もさわってた。マドリッドから来たからだ)。彼は男の顔と、切手を眺めたときのその表情とを思い出した。熱にとりつかれた奇妙な表情を。マチウもまた、歩くのを止めずに切手を眺めた。それから葉書をポケットにしまい直した。汽笛が鳴った、マチウは(おれも歳だな)と思った。
 十時二十五分だ。早く来てしまった。足を止めずに、顔を向けることさえせずに、ブルーの小さな家の前を通り過ぎた。しかし、横目でちらりと家を見た。どの窓も黒々としているが、デュフェ夫人の部屋だけは別だ。マルセルはまだ玄関のドアを開ける時間がなかったのだ。かがみ込んで、男のような動作で、天蓋付きのダブルベッドの上の母親を毛布でくるみ込んでいる。マチウは暗い気持ちのままだ。(二十九日までやっていくのに残り五百フラン。日に三十フラン、いやそれ以下だ。どうしたらいいのか)。彼はくるっとまわって道を引き返した。
 デュフェ夫人の部屋の電気は消えていた。ほどなく、マルセルの部屋の窓が明るくなった。マチウは車道を横切り、新しい靴の底が鳴らないようにしながら、食料品店に沿って歩いた。ドアはすこし開いている。そっと押すと、ドアは軋んだ。<<水曜日、油差しを持ってきて蝶番の受金に油をすこし差してやろう>>。中に入り、ドアを閉め、暗闇の中で靴を脱いだ。階段はすこし音を立てた。マチウは靴を手に取って、慎重に上った。一段一段、足をおろす前に、親指で段をさぐっていった。(茶番もいいとこだ)と思った。
 踊り場に着く前に、マルセルは部屋のドアを開けた。アイリスの匂いのするバラ色の湯気が部屋の外に噴き出し、階段へと広がった。マルセルは緑のネグリジェを着ている。丸味をおびた柔らかな腰の線が透けて見える。彼は中に入った。いつでも、貝殻の中に入るような気がする。マルセルはドアを閉めて鍵をかけた。マチウは壁の間にはめ込まれている大きな洋服だんすの方に行き、扉を開いて中に靴を置いた。それからマルセルを眺め、何かがうまくいっていないことを見てとった。
 「どうかした?」と低い声でマチウは聞いた。
 「いえ、まあまあよ」と低い声でマルセルは答えた。「で、あなたは?」
 「文無しだ。そのほかはまあまあだ」
 彼はマルセルの首と唇にヰスをした。首は龍涎香の匂いがし、唇は安煙草の匂いがした。マルセルはベッドの縁に座り、自分の脚を眺めはじめた、その間にマチウは服を脱いだ。
 「これはなんだい」とマチウは尋ねた。
 暖炉の上に、見たことのない写真が一枚飾ってある。彼は近づいて見た、ボーイッシュな髪型をした痩せた少女が、きつい顔をしてはにかんで笑っている。男物の背広を着込み、ローヒールの靴を履いている。
 「わたしよ」と顔を上げずにマルセルは答えた。
 マチウは振り向いた。マルセルはネグリジェを肉付きのよい腿の上にたくしあげている。前に身をかがめているので、ずっしりとした乳房のあやうさがネグリジェの下に感じとれた。
 「どこで見つけたの」
 「アルバムの中よ。二八年の夏のだわ」
 マチウは上着を念入りに折りたたみ、洋服だんすの中、靴の横に置いて、尋ねた。
 「家族のアルバムを眺めるようになったのかい」
 「そうじゃないけど、なんていうか、今日、これまでの人生のいろんなことを思い出したくなったの。あなたと知り合いになる前、まだとても丈夫だった頃に、自分がどんなだったかを。持ってきて」
 マチウが写真を持っていくと、彼女は両手でひったくった。彼は横に腰をおろした。
マルセルは身ぶるいし、すこし身体を離した。かすかに微笑みながら写真を眺めている。
 「わたしって、おかしかったのね」と彼女は言った。
 少女はぎこちない姿勢で立ち、公園の柵にもたれている。口を開けていて、やはりこう言っていたに違いない。「おかしい」。同じように屈託がないがぎこちなく、同じように大胆だが図々しさはなく。ただ、少女は若く、痩せている。
 マルセルは頭を左右に振った。
 「おかしいわ! おかしい! この写真はリュクサンブール公園で、薬学部の学生か撮ってくれたの。わたし、ブルゾンを着ているでしょ? ちょうどこの日に買ったもの。次の日曜日にフォッテータブロ上言言難け肘に遠出することになってたから。あーあ……」
 確実に何かがあった。動作がこれほど荒っぽかったことはかつてなかったし、声がこれほど耳ざわりで、これほど男っぽいこともかつてなかった。マルセルはベッドの縁に腰をおろしている、素裸よりもさらに悪く無防備で、バラ色の部屋の奥に置かれた大きな花瓶のようだ。一方で、男のような彼女の声を耳にする、他方でほの暗く強烈な匂いが彼女から立ちのぼってくる、これはかなり耐え難いことだ。マチウは彼女の肩を抱き、自分の方に引き寄せた。
 「懐かしいのかな、あの時代が」
 そっけなくマルセルは言った。
 「あの時代じゃないわ。懐かしんでるのは、わたしが送り得たかもしれない人生」
 マルセルは化学の勉強を始めていたが、病気のために中断した。マチウは思った。
(まるでおれのことを恨んでるみたいだ)。口を開いて問いかけたが、彼女の眼を見て口を閉ざした。悲しげで張りつめた表情で写真を眺めている。
 「わたし肥ったかしら」
 「まあね」
 彼女は肩をそびやかし、ベッドの上に写真を投げ出した。マチウは(たしかに、マルセルは陰気な生活を送ってる)と思った。頬に牛スしようとしたが、彼女は静かに身を振りほどき、ヒステリックな笑いをもらして言った。
 「あれから十年になるのね」
 マチウは思った。(何もしてあげていない)。週に四晩、会いにやって来る。自分がしたことをすべて細かく話して聞かせる。マルセルのほうはあれこれと忠告をしてくれる、真剣な、そしてやや権威的な声で。よくこう言っていた。「わたしは人を介して生きてるの」。彼は尋ねた。
 「きのうは何をした? 外へ出た?」
 マルセルはだるそうで、ゆるやかな動作をした。
 「いいえ。疲れてたの。すこし本を読んだけど、お店のことでしょっちゅうママがやって来て邪魔されたわ」
 「で、今日は?」
 「今日は外に出ました」と不機嫌な顔で彼女は言った。「外の空気を吸って、人と接する必要があるなって感じて。ゲテ通り(パリ左岸、十四区のモンパルナス地区の通り。メーヌ並木道を挟んでヴェルサンジェトリクス通りとほとんどつながる)まで下りてって、面白かったわ。それから、アンドレに会いたかったの」
 「彼女に会った?」
 「ええ。五分間。アンドレのとこを出たら、雨が降りはじめて、なんておかしな六月。それに、いやしい顔をした人ばかり。タクシーに乗って帰ったわ」
 彼女は弱々しく尋ねた。
 「で、あなたは?」
 マチウは話して聞かせる気になれなかった。
 「きのうは、高校に行って最後の授業をした。夕食はジャックの家、いつものように退屈だったね。今朝は会計課に寄って、いくらか前借りできないか調べてもらったけど、どうもだめなようだ。ボーヴェ(パリの北約八十キロにある街)にいたときは、会計係と話がついていたんだけど。それから、イヴィックに会った」
 マルセルは眉を上げて、彼を見た。イヴィックのことをマルセルに話したくなかった。こう付け加えた。
 「イヴィックは今、気持ちがねじれてる」
 「理由は?」
 マルセルの声は強さを取亘戻し、顔は理性的で男っぽくなっている。肥った中東の男のようだ。しぶしぶ彼は言った。
 「落第しそうなんだ」
 「勉強してるって、言ってたじゃない」
 「まあ、そうなんだけど……こう言ってよけりや、イヴィック流のやり方でね。つまり、一冊の本を前にして、身動き一つしないで何時間もじっとしているに違いない。でも、彼女がどんなか知ってるかい、いろんな明証を持ってるんだ。頭がいかれた女と同じだ。十月には、植物学をよく理解していて、試験官も満足してた。それから突然イヴ

自由への道〈1〉 (岩波文庫)

自由への道〈1〉 (岩波文庫)