ヴィラネル

 前にも述べたやうに、わたしは少年時代、名原広三郎訳の文庫本で読み、熱中し、夢中になった。その陶酔感は、やがて研究社の復刊本を借覧し、このヴィラネルを筆写したときもつづいた記憶がある。しかし中年男になって翻訳したときには醒めかけてゐて、もう以前のやうな興奮はなかった。はじめのうちは、青春の共感が薄れたせいだと思ったけれど、やがて、詩の趣味が違ったせいもあるらしいと気がついた。
 どうやら、エリオットやオーデンやエンプソンやディラン・トマスの詩を、これと相前後して読んだせいでわたしの嗜好がかなり改まってゐたやうである。彼らの詩風にくらべると、ジョイス=ディーダラスのヴィラネルはかびくさいくらゐロマンチックで、苦い味、新しい細工が足りなかった。さらに今あげた詩人たちのうち、エリオットを除く三人はみなヴィラネルを書いてゐるのだが、同じ詩形を使っても、ディラン・トマスの「あのおやすみの挨拶のなかへおだやかにはいってゆくな」("Do not go gentle into that good night")は、父の臨終に際しての悲しみと流露感に富む抒情性との結びつきが見事だったし、オーデンの『海と鏡』のなかのミランダの台詞は完璧な技法性において、ジョイス=ディーダラスの作とは桁違ひの出来ばえだった。それは残念ながらしかし決してしぶしぶではなく、認めるしかなかった。
 やがてわたしは、ジョイスが十数年前に作った自作の詩を流用したのは手抜きではなく、この落差がもたらす効果を狙ったのだらう、と気がついた。すなはち天才気取りの未熟な才子あるいは贋の天才への皮肉な視線で彼を見るやうにさせることこそ意図だった、といふ認識である。これは受入れるしかない感じで迫ってきた。しかし同時に、結末の日記を含む挿話の感銘はそれと鋭く対立してゐて、その両者の矛盾をどう受止めたらいいかわからず、わたしは困り果ててゐた。
 さうしてゐるうちにややこしい解決策が訪れた。ジョイスはこの主人公に二重の役割を担はせてゐるらしいと考へはじめたのである。つまり藝術家の勝利と敗北、栄光と挫折の二つを描いたといふ解釈。スティーヴン・ディーダラスは一方では天才的な巨匠の前身であり、他方では凡庸の才の持主である。さういふ両面を持つ青年を併せ描いて、藝術家志望者の全体像を示す。それを意図し、またそのことに成功したのではないか。すなはちわれわれがこの長篇小説で出会ふのは、巨匠ダイダロスとその子イカロスとの共存であり合成であった。わたしはさう考へてやうやく納得が行ったのである。


199-200頁(『すばる』2009年7月号「空を飛ぶのは血筋のせいさ」丸谷才一