完全なる証明 - マーシャ・ガッセン

ミレニアム会議

 数はすべての人に魔法をかける。わけても数学者は、数に意味を吹き込むという行為の虜になりがちだ。それを思えば、二〇〇〇年という年に、世界的な数学者たちがパリに集まり、その会議を開いたのも不思議ではない。数学者たちはその会議が、世紀を画するものになると考えていた。彼らはこの機会に、数学という分野を総ざらえし、その比類なき美しさについて語り合おうとしたのだ----美しさは、参会者全員が了解している数学の価値なのである。彼らはまた、功績のあった仲間を顕彰し、その努力に報いようとした。そしてまた、未来に達成されるであろう業績が、どれほどエレガントで重要なものになるかを、みんなで思い描こうともしたのだ。
 「ミレニアム会議」と称されたその会議を主催したのは、その二年前に、数学知識の普及と奨励を目的として、ボストンの実業家ランドン・クレイとその妻ラヴィーニアによって創設された非営利団体クレイ数学研究所だった。この研究所は創設からこのときまでに、マサチューセッツ州ケンブリッジのハーバードスクエアからほど近いビルに瀟洒なオフィスをかまえ、すでにいくつかの研究に賞を与えてきた。さらにこのミレニアム会議では、数学の未来に向けて、ある野心的な計画を打ち出した。「フェルマーの最終定理」を証明したことで知られるイギリス人の数論学者、アンドリュー・ワイルスの言葉を借りれば、そのねらいは、「ニ十世紀に生まれ、これまで数々の挑戦がなされたにもかかわらず解けなかった問題、しかし、強く解決の望まれる問題を世に示す」ことにあった。「これらの問題がどのように解かれるのかはわかりませんし、いつ解決されるかもわかりません。五年かかるかもしれないし、百年かかるかもしれません。しかしこれらの問題を解くことができれば、まったく新しい展望が開け、新たな発見がなされるだろうと、私たちは考えています」
 数学のおとぎ話にふさわしい舞台を用意するかのように、クレイ研究所は七つの問題を挙げ、それぞれの問題に百万ドルという法外な懸賞金をかけた。誰であれひとつでも問題を解決した者には、それだけの金を進呈しようというのだ。
 数学の王者ともいうべき有名な数学者たちが、七つの問題のそれぞれを説明するために演壇に立った。まず手はじめに、二十世紀にきわめて大きな影響力をもった数学者の一人、マイケル・フランシス・アティヤが、一九〇四年にアンリ・ポアンカレによって定式化された「ポアンカレ予想」の概略を説明した。これはトポロジーにおける第一級の難問である(第9章で詳述)。「著名な数学者たちが大勢この問題に取り組みましたが、いまだ解決をみておりません」と、アティヤ。「これまで多くの証明がなされましたが、どれもみな間違っておりました。たくさんの人たちが、これを解こうとしては失敗してきたのです。証明の誤りを自分で見つけることもあれば、友人に指摘されることもありました」。ここで笑いが起きたが、聴衆の中にはポアンカレ予想に取り組んで失敗した者が、少なくとも二、三名はいたはずだ。
 この問題を解決するために必要な道具は、物理学の方面から得られるかもしれない、とアティヤは言った。「これは問題を解くことのできなかった教師が、これから解いてみようとする生徒に与える手掛かり、そう、ヒントです」。彼はそう言って笑いを誘った。実際、聴衆の中には、ポアンカレ予想に打ち勝つ瞬間へと数学を近づけてくれそうな問題に取り組む人たちもいた。だが、今にも答えに手が届くだろうと思っている者は、ただ一人もいなかった。
 有名な問題に取り組む数学者の中には、そのことを隠そうとする人たちがいる。ワイルスにしても、フェルマーの最終定理に取り組んでいたときは、そのことを隠していたのだった。しかし一般に、数学者たちはほぼ一団となって歩を進めている。ポアンカレ予想の証明と称するものは毎年のように現れたが、最後に大きな進展があってから、かれこれ二十年が過ぎていた。一九八二年にアメリカ人のリチャード・ハミルトンが、この問題を解くための青写真を示したのだ。しかしそのハミルトンも、自分のプログラムはあまりにも難しすぎて、これ以上は先に進めないと考えるに至っていた。そして、それに代わる道筋を示せる者はいなかった。クレイ研究所が挙げた他のミレニアム問題と同じく、ポアンカレ予想もまた、決して解けない問題である可能性もないわけではなかったのだ。
 七つの問題のどれかひとつでも解くことができれば、それはまさしく快挙である。ニ十世紀数学のもう一人の巨人であるフランス人、アラン・コンヌはこう述べた。「クレイ数学研究所は、ひとつはっきりとしたメッセージを伝えたいのです。数学が貴重なのは、まずもって、これら七つの問題のように、とてつもなく難しい問題、数学におけるエベレストやヒマラヤのような問題が存在するからなのだということを」。そしてコンヌはこう続けた。「たとえ頂上にたどり着くことができたとして、それはきわめて困雛な道のりになるでしようし、人生、あるいはそれと同じくらい大切なものを引き替えにすることになるかもしれません。しかし、これだけは言えます。もしも頂上に着いたなら、そこからの眺めは本当に素晴らしいだろう、と」
 近い将米に、ミレニアム問題のどれかひとつでも解決されるとは思えなかったが、それでもクレイ研究所はそのときに備えて、賞を授与するための手続きを定めた。その規定によれば、問題を解決した論文は、査読つきの専門誌に掲載されなければならない。これはもちろん、数学の世界ではごく当たり前のことだ。そして掲載から二年間を待機期間とし、そのあいだに世界中で数学者が論文を精査して、証明に間違いがないかどうか、問題を解決したのがたしかに論文の著者かどうかを判定する。その後委員会が招集されて、授賞のための推薦が行われ、研究所から受賞者に百万ドルが渡される。七つの問題がひとつとして解決されない可能性もあったし、アンドリュー・ワイルスが予測したように、最初の解答が出されるまでに、どんなに早くても五年はかかりそうなこともあり、これを煩瑣な手続きだと思う者はいなかった。

インターネット上の証明

 それからちょうど二年後の二〇〇二年十一月、一人のロシア人数学者がポアンカレ予想の証明をインターネット上に公開した。ポアンカレ予想を解決したと主張したのはこの人物がはじめてではなかった----それどころか、ロシア人だけにかぎっても、その年にインターネット上にポアンカレ予想の証明を発表した者はほかにもいたのだ。しかし、この人物の証明は正しいことが、やがて明らかになるのである。
 ところがその後、ものごとは予定通りには進まなかった----クレイ研究所の予定ばかりか、ほかの数学者ならば妥当と思ったであろう、いかなる予定通りにも進まなかったのだ。まず第一に、グリゴーリーペレルマンというそのロシア人数学者は、査読つきの専門誌に論文を発表しなかった。そして、ほかの数学者たちが自分の証明を綿密に分析した論文を、きちんと検討することはおろか、それについて論評することすら拒否したのだ。世界中の一流大学から降るように舞い込んだポストの申し出もすべて断った。二〇〇六年には、数学における最高の栄誉であるフィールズ賞が授与されるはずだったが、彼はこれも辞退した。そしてそれ以降、ペレルマンは数学者ばかりか、ほとんどすべての人と連絡を絶ってしまったのである。
 それでもなお、近い将来、クレイ研究所は自ら定めた規定をまげてまで、ペレルマンに百万ドルの賞を授与するという決定を下すだろう。そしておそらくペレルマンは、これもまた辞退するだろう。
 でも、なぜ?
 私はそれを知りたかった。本書の執筆に取りかかったとき、私は三つの疑問への答えを見つけたいと考えた。第一に、なぜペレルマンは、ポアンカレ予想の証明を達成することができたのか? つまり、その頭脳のいったいどこが、彼とこの問題に挑んだ他の数学者たちとを分けたのだろうか? 第二に、なぜペレルマンは数学を捨て、自分がそれまで住んでいた世界までも捨ててしまったのだろう? そして第三に、なぜ彼は賞金の受け取りを拒むのだろうか? 彼はそれを受けるに値するし、間違いなく使い道はあるだろうに。
 本書は普通の伝記のような体裁にはなっていない。私はペレルマンに対し、長時間のインタビューを行わなかった。それどころか。彼とは口をきいたことすらないのだ。私がこの厄介な仕事に取りかかったとき、彼はすでにほとんどの人たち----そしてすべてのジャーナリスト----との接触を絶っていた。私は複数の仲介者を通してペレルマン本人に取材を申し込んだが、結局、不首尾に終った。そのためにこの仕事はますます難しいものとなり、私は文字通り、会ったことのない人物を思い描かなけれぱならなくなった。しかしそのおかげで、この仕事はいっそう面白くなったとも言える----それはひとりの人物を探り出す作業だったからだ。本書を書き進めることは、少しずつ深く探っていくプロセスだった。さいわい、彼と近しかった人たちや、彼を知る人たちのほとんどがインタビューに応じてくれた。
 調査を通して見えてきたのは、彼の頭脳のタフさだった。彼が数学の恐るべき難問を攻略できたのは、独創力のおかげでも、想像力のおかげでもなく、強靭な頭脳のおかげだったのだ。問題は十分シンプルに定式化されていたが、解答は複雑をきわめ、ペレルマンが登場するまで、その全貌を把握できるほどタフな頭脳をもつ者はいなかった。彼よりも独創的な頭脳の持ち主や、インスピレーションのひらめく頭脳の持ち主が、問題を部分的に解明してはいたが、全体像を捉えることはできなかったのだ。しかし、いかに強靭な頭脳にも、人間行動という複雑きわまりないものの全貌を捉えることはできない。とりわけ、野心や幻滅のために、ときに矛盾した、必ずしも立派とはいえない行動がとられてしまった場合には。証明を成し遂げたのちにペレルマンが出会ったのは、まさにそうした複雑な人間行動だった。彼が世界とのつながりを絶ち、世間の栄誉や注目、そして金銭も打ち捨てたのは、そのためだったのだ。
 この物語を紡ぎ出すために、私はまず自分が知っていることから始めなければならなかった。私はペレルマンと同い年で、旧ソ連で彼と同じような状況に置かれたユダヤ系知識人家庭の出

完全なる証明

完全なる証明

序 章 世紀の難問を解いた男
一〇〇万ドルの賞金がかけられた数学上の七つの難問のひとつポアンカレ予想。それを解いたその男は、名誉も金も全て拒否し、森へ消えていった
第1章 パラレルワールドへの招待
七〇年代のソ連の子どもたちは、全土で毎朝同じ時間に、学校に同じ服で出かけ、同じ内容を学習した。その一人だった私は別世界の存在に気づく
第2章 創造への跳躍
旧ソ連で、科学はイデオロギーに従属した。音楽と詩を愛した天才数学者コルモゴロフは、イデオロギーの砂漠に奇跡のようなオアシスを作り出す
第3章 天才を育てた魔法使い
自らは天才ではない。しかしその魔法使いは、才能を見いだし育てた。その教育法の秘密は、子どもたちに説明させ、それに耳を傾けることだった
第4章 数学の天使
才気走った生徒ではない。「それを超えるのはまた違った種類の人間」。レニングラード第239学校の数学教師リジグは、数学の天使と出会う
第5章 満点
ソ連の大学はユダヤ人の入学に厳しい制限を課していた。それを突破するための方法の一つが、数学オリンピックの代表選手に選ばれることだった
第6章 幾何学の道に
ペレルマンは、大学院進学に向けて「幾何学」を専攻する。一方、数学クラブで教師役をつとめることになるが、生徒に自分と同じ完璧さを求める
第7章 世界へ
ゴルバチョフ政権下でグラスノスチが始まる。ソ連の数学者たちは、初めて自由に西側の数学者たちと交流を持ち始める。世界へと誘った幾何学
第8章 アメリカでの研究
渡米したペレルマンは、アメリカの数学者が二〇年前に試みてなしとげられなかった「ソウル予想」の証明を、たった五ページの論文で完成させる
第9章 その問題、ポアンカレ予想
球や箱や丸パン、そして穴のない塊の表面は、本質的にはどれも同じだ。だが次元をひとつあげるとどうだろうか。これが与えられた究極の問いだ
第10章 証明現る
インターネット上に、忽然と現れたその証明が、数学界に衝撃を与える。ペレルマンは、講座に出席し、丁寧に自分の証明の説明を始めるのだが。
第11章 憤怒
二人の中国人数学者が、自分たちこそが、ポアンカレ予想の完全な証明をなしとげたのだと発表する。ペレルマンにとって数学は別の顔をみせる
第2章 完全なる証明
一〇〇万ドルの問題は、完全に解けたのだ。クレイ研究所は授与のための準備をはじめる。が、その頃ペレルマンは、かつての師との連絡も絶った。
著者あとがき
ソースノート
補遺1 コルモゴロフの四つ穴ボタンの解答
補遺2 ケーニヒスベルグ橋の問題の証明
訳者あとがき