地元のコーヒー業界はこの先駆者を尊敬する

Business & Technology | Local coffee world reveres this pioneer | Seattle Times Newspaper からの翻訳記事。

ケント・バックのことを自慢する大仰さからすると、(エスプレッソ・ヴィヴァーチェの)デイヴィッド・ショーマーは自分のところのエスプレッソ・マシンを全てバックのラ・マルゾッコ工場(イタリア)から購入するんじゃないか、と第三者なら考え兼ねない。

「バックは心暖まるやさしい魂の持ち主だし、評判に違わぬ世話好きな人さ」とショーマーは話す。「バックはこれまで、機器に関して、ホント僕の天使だったし、これからもそうだ。ちょうどグラインダー・バー[淹れる前のコーヒー豆を砕くもの]を48セット分うちに納めてくれたばかりさ。すごく手に入りにくいものでね」

こんな好印象にも拘わらず、ショーマーがラ・マルゾッコのエスプレッソ・マシンを買わなくなってから数年が経つ。

代わりにショーマーのエスプレッソ店に置かれているのはシネッソのマシンだ。製造したこの会社の拠点はシアトルで、社長のマーク・バーネットは8年ほど前にバックから解雇された人物だ。

バーネットでさえラ・マルゾッコ社の筆頭株主に対しては優しい言葉を口にする。

「心根は良いし、それにやろうとしていることは常に良いんだ」とバーネットは話す。ラ・マルゾッコ社に歴史の点でも規模の点でも劣るシネッソはショーマーの店を始めとする高級店を惹きつけてきた。昔ならバックから購入していたのにと思しき高級店をだ。

コーヒー業界の人たちはバックを尊敬する。アメリカのコーヒーの先駆者であり純粋な動機の持ち主だと見ているからだ。エスプレッソ気違いはコーヒーが好きな人物とお金が好きな人物とに別れることが多い。業界人はバックが前者の傾向の強い人物だと考えている。

エスプレッソの市場規模が比較的小さい頃に、バックは業界を注意深く調査した。1970年代後半のことだ。初めのうちこそガジェットをいじくるのが好きだったバックはそのうちエスプレッソ・マシンに魅了された。自身がオーナーのパイオニア広場のレストランでのことだ。そのとき良いエスプレッソへの愛に火がつき、バックはそのエスプレッソ・マシンをノースウェストへと広める事業に乗り出した。ラ・マルゾッコを始めとするエスプレッソ・マシンをイタリアから輸入し販売することにしたのだ。

この、エスプレッソ機の興業主は、シアトルのレストランがエスプレッソのアイディアを嗅ぎつけたときのことを今でも覚えている。

「レストランの方々は『エスなんだって?ああ、あのぞっとするイタリアの飲み物か』と言うんです」バックは思い返した。「最初のマシンが売れるまで一年ほどかかりましたよ」

バックはこの舶来品を「カプチーノ・マシン」と呼び始め、ビジネス・パートナーたちは地元フェスティバルで試飲品を提供すべく、ノースウェストで最初のエスプレッソ用車両を造った。

1980年代初期までにバックは幸運を感じていた。ノースウェストで毎月3台から4台のエスプレッソ・マシンが売れるまでになったのだ。

それからスターバックスがやってきた。

このシアトルの会社は、1971年頃からもっぱらコーヒー豆を販売していたが、1984年になるとエスプレッソ飲料を販売し始めた。フィレンツェ製のラ・マルゾッコ機を使っていた。バックから購入したものだった。

「弊社はそれをFourth and Springに設置しました」スターバックスの共同設立者ジェリー・ボールドウィンベイエリアのピート・コーヒーのオーナーでもある)は思い返した。「同じものをサンフランシスコにあるピートの店舗にも購入して、それから両方の会社で追加導入をし始めました」

彼らがラ・マルゾッコを選んだ大きな理由は、そのマシンが抽出前のコーヒー粉を浸すとき他よりも多くのお湯を使っていることだった。そのことが他よりも香りが高いとの結果に繋がったのだ。

「たしかに最高の部類に属していましたね」とボールドウィンは語った。

不屈の会社

何年もの時を越え、ラ・マルゾッコはまたイタリアのエスプレッソ・マシン会社の中でもっとも安定している会社の中に位置し続けている。いくらかは、ボールドウィン曰く、バックのオーナーシップのお蔭である。

「私はケントと仕事するのが本当に好きでね、それにあの変わらない熱意もね、ビジネスに対しても人生に対しても同じ調子でさ。」とボールドウィン(ピートの現役の重役だ)は話した。ピートの店舗は他のいくつかのマシンも試してみたが、何年も前にラ・マルゾッコに返却していた。

バックは決してラ・マルゾッコを買おうと意図したことなどなかったのだが、1994年、スターバックスのまばゆい成長に合わせて生産量を増やしてくれるようイタリアの会社に頼み込んだとき、この製造者は難色を示した。バックが自身でやってみたらどうかとラ・マルゾッコは提案してきたのだ。会社を買うという条件つきで。

そうしてバックと小さな投資グループはラ・マルゾッコの90%を購入し、バックは第二工場をバラードに設立した。

ラ・マルゾッコは月産140台近くに生産力を強化し、そのうち半分はスターバックス向けになった。

スターバックスの転換

2004年、スターバックスと供にした流星のような成長はストップした。

このチェーンは押しボタン機へと転換した。ひとつには会社が毎年雇う数千人の新しいバリスタのトレーニングを簡素化することが目的だった - のちにスターバックスのCEOハワード・シュルツが嘆いた決断だ。スターバックスにとって、それはラ・マルゾッコ機とともにやってきた「ロマンスと劇場」のコストだったと口にしていた。

スターバックスの転換は、ラ・マルゾッコに、バラードの20人体制の工場と売上高の数百万ドルというコストを強いた。

「しばらくの間あれを財政的に乗り切るのに骨が折れたが、独立系[コーヒーハウス]がスターバックスとの差別化を図るという本当の機会を開拓した」とバックは口にした。反射的に明るい方の側面を見る人物なのだ。

スターバックスのビジネスを失ったことに加えてラ・マルゾッコの販売会社問題が持ち上がった。同じ年、バックは Franke(マクドナルドにキッチン設備を提供していることで知られるスイスの企業)にその会社を売った。

その移転によって顧客は混乱した、とバックは話す。「人々の頭にいくつもの疑問を起こさせた。入手できるのは何か、面倒を見てくれるのは誰か」とバックは言った。

ラ・マルゾッコの売上は落ちなかったとはいえ、かのイタリア製マシンはFrankeが注力する対象にはなっていなかった、とバックは話す。「あの会社には顧客基盤との間に温かく心地よい関係を築くということがなかった」とバックは言った。「弊社は、この以前よりも強くなっているマーケットがその姿を現そうとしているのを感じた」

Frankeは2007年に一騒動起こしもした。それは待ちに待たれていた家庭用エスプレッソ・マシン(GS/3)の値付けを7,500ドルに設定したときのことだ。それまで何年もの間、主要顧客はマシンが4,500ドルにもっと近い価格になるだろうと信じていた期に及んでのことだった。

さらなる競争

2009年、バックとビジネスパートナーはラ・マルゾッコの販売権を買い戻した。販売会社はGS/3の希望小売価格を6,500ドルに引き下げ、元従業員たちからの競争に迫った。

最近のケースでは、シネッソのバーネットがラ・マルゾッコを打ち負かし、温度制御機能付きのストラーダ機を市場に打ち出した。そのおかげでバーネットはエスプレッソ・ヴィヴァーチェのショーマーからのビジネスを勝ち取った。

他の2人の元ラ・マルゾッコ社員(エリック・パーカンダーとダン・アーワイラー)がスタートを手助けしたのはスレイヤーという名前の会社だ。バリスタが湯圧を秒単位で制御できるマシンのお蔭で名を知られている。

バックはラ・マルゾッコがちょっと巻き返しを図っているところだということを認める。

「我社はあの[バラードの]工場を閉めなければならず、[販売会社を]売りに出していて、そのために焦点も定まっておらず、リソースも限られていて - そこでイノベーションは棚上げになっていたんだ」

新工場

しかし、今やラ・マルゾッコは完全に復調しており、年間4,000台近いマシンを70ヵ国で販売し、トスカーナの新工場でマシンを製造している。今や売上高はスターバックス向けに製造していた頃よりも大きい数字を記録している。エスプレッソの目利きはラ・マルゾッコをシネッソやスレイヤーと比較しているとはいえ、バックは彼らを過去最大の競争相手だとは考えていない。

「真の競争は、平凡なエスプレッソに付きものの巨大なマーケットにあるマシンに対してのものであって」とバックは説明する。「我社はそういった製品を改善するためにも皆さんに選択をして頂こうと挑戦しています。我社の最大の競争相手は自己満足なのです。」