ロサンゼルス拘置所日記 - 高平隆久

第1章――逮捕

 雨上がり(二〇〇二年十一月十三日)
 気がつくと夜中の二時になっていた。
 安ワインは二本目が空だ。アメリカに来てからというもの、ワインが安いので量が増えてしまった。飲みはじめたときにはまだ大雨だったけど、いつの間にかやんで月が出ている。一週間ぐらいずっと続いていたスコールのような強い雨がやっとあがり明日からはひさしぶりに気持ちのいいカリフォルニアの気候の中で過ごせるだろう。
 まだ酔いは残っていたけど、あたりまえのように車に乗りこんだ。中古で買ったボロ車は、空手を教えている生徒の父親が何日もかけて直してくれた。それでもエンジンはなかなかかからない。酔っ払い運転は常習になっている。自分は絶対に捕まらないという変な自信があった。
 ハリウッドまで行くいつものルートは、いつも曲がる所を知らないうちに通り過ぎてしまった。戻ろうかとも思ったけどそのまま走り続けた。
 「遠周りだけどいいか」
 そう思いながらも、ハリウッド・ブールバードに出た。この道は信号が多いし、夜でもおのぼりさんの観光客やドラッグディーラーがとろとろと車で走るので、いつもすんなりとは進まない。いつ通ってもイライラする。おまけにパトカーも多いので、飲んでいると緊張する。
 新しくなったアカデミー賞の会場であるコダック・シアターの前を過ぎて、二ブロック西のシカモア・アベニューを右に曲がる。週末は酔っ払いがたむろするライブハウスの "Knitting Factory" の前を通り、彼女のアパートの前に車を停めた。
 こちら側から行くと彼女と口論になることが多い、というジンクスを気にしながらも、とうとう最後までいつもと違う道順で到着した。
 アパートの門の鍵を開け、駐車場へ車を見にいったが、彼女はまだ帰ってきていない。
「三時まで待って帰ってこなければ、何かあったのかもしれないから、警察と病院に連絡してみよう」
 何だかストーカーのような気分でもあるが、こういうことをしなくてはいけないのも、「面倒を見ます」と日本にいる彼女の両親に約束した手前、自分の責任だという気持ちがある。
 五分ぐらい過ぎたころ、前方に車のヘッドライトが見えた。目を細めて、その場で車が近づくのを待った。彼女の車かなと思い、外に出て迎えようと車を降りた。
 ヘッドライトでまぶしいけど、ほかにも二台が一緒に走ってくるのがわかる。
 僕の五メートルぐらい前で車は停まった。彼女が乗っているのがわかり、ホッとしたのもつかの間、彼女が何かしでかしたのかと不安になった。誰かに付きまとわれているのか護衛されているのか、何となく近づきにくい雰囲気だ。なぜか彼女の車はアパートの駐車場へは向かわず、途中で停まったまま、車から出てこない。
 一緒に停まった車から二人が降りてきた。彼女の車に近づいて何か話している。一人が僕に近づいてきた。それが警官だと気づいたその瞬間、
「手を挙げて足をひろげろ!」
 何のことだか理解できず、その言葉を無視し、
「なぜこいつらにこんなこと言われる筋合いがあるんだ」
 と思いながら、彼女の方を見ると僕を意識的に無視している。そのかわりに、横にいる日本人の男がこちらを睨みつけている。
「こいつ誰だ?」
 そう思う間もなく警官に足蹴にされ、足を開かせられ、テレビで見るように車の屋根に手をつかされた。説明もないままに調子づいて身体検査をする警官の行動を阻止してもらおうと彼女に声をかけると、
 「しゃべるな!」
 とだけ言い、断りもなくいきなり手錠をかけ、パトカーの後部座席に乗れと言う。
連中は何の相談をしているのか、まったく事情もわからないまましばらくそのまま放置された。
 パトカーの硬い座席から外の様子を見ていると、これが幽体離脱というのだろうか、自分の姿を上から眺めているようなふわふわした気分になった。意識が別の所にある。それともまだ酔いが醒めていないのか、もしかしたらとうとう酔っ払い運転で捕まっているのかとも思えてくる。頭の中は何も整理できないまま、すべてがまるで他人事のように感じられる。こんなに非現実的なことは、誰かほかの人間の身に起こっているのにちがいない。ただ、この主人公にはこれから何かとんでもないことが起こるのだろうな、ということだけが予測できた。
 警官と彼女は何か手続きを終えたようで、二人の警官が僕の乗っているパトカーに向かって来た。どこかに出かけるようだ。入れ替わりに彼女と日本人の男は、アパートの駐車場の入り口を開け、そこへと入っていった。
 その瞬間、この出来事の主人公は自分だとやっと気がついた。

留置場
 いつもよく行くピザ屋を横目に見ながら、つい昨日まで生活していた慣れ親しんだ街並みも、パトカーのガラス越しにはまるで天体望遠鏡で覗いた星のように遠い場所に感じる。
 パトカーは五分も走らないうちに警察署に着いた。そこはハリウッドの中心、といっても華やかさがあるような場所ではなく、ちょっと一本道を曲がっただけで景色も雰囲気もがらりと変わる汚い建物ばかりの通りにあった。つい先日行った郵便局の並びだ。
 そこは警察の裏口駐車場だとわかった。中には長い通路に沿って、木のベンチが片側に並んでいた。そこに座らされ、後ろ手に手錠をかけなおされて椅子の脚につながれた。奥のベンチには髪の毛の長い年配の白人が座っている。
 その人は自分が何をしでかしたのか、まったく何も認識できていないように見えるけれど、きっと僕も同じような様子だったのだろう。状況は全然よくなさそうだということだけはわかる。閑散とした待合室で、出入りするいろんな人種の自分よりもはるかに若そうな警官に何の敬意も払われずに見下され、屈辱感を味わいながらも、僕は僕でこの珍しい光景を興味津々で見物していた。制服から私服に着替えた警官はどこにでもいる若者と変わらないし、入れ墨も普通のファッションのように入れている。米国人にとって入れ墨は、日本人が考えるような特殊なものではないのだろう。
 いじくっているうちにきつく締まってしまった手錠の痛みを感じながら、何を待たされているのかもわからないまま放置された。二時間近くもそこにつながれていただろうか、やっと一人の警官が手錠をはずしに来た。
 彼に付き添われ、通路に並んだ扉の一つに入った。そこで一枚のピンク色の紙を渡された。
 「11-08-02, RAPE, Bail $200,000」
 その紙に書いてある通りのことを警官が述べる。
 「レイプって強姦のことだよな? それに十一月八日って、先週のことじゃないか? レイプだって?」
 手にしているピンク色の紙、これが逮捕状なのだろうか? と考えている間もなく、目次
第1章 逮捕
雨上がり
留置場
第2章 彼女
出会い
疑惑
怒り
第3章 移送
取り調べ
護送バス
第4章 裁判所
CCB
罪状認否
第5章 ツインタワー
医療検診
認定試験
K-11
デイルーム
保留
第6章 アジアン・モジュール
失格
フィッシュ
シニア・ドーム
第7章 日々
自己紹介
公選弁護人
予審
スクール・ドーム
刑務官
日々の暮らし
生活の知恵
第8車 弁護人
弁護人登場
供述書
年越し
第9章 逆転
嘘つき
電話
司法取引
とまらない涙
証拠文書
牢獄
不信
私刑
勝算?
第10章 裁判
 はげまし
 最終判決
 希望、友人
第11章 釈放
ロールアップ
移民局
強制送還
帰国
巻末付録1 忘れられない人たち
巻末付録2 許せない奴ら
巻末付録3 ギャングについての基礎知識
巻末付録4 これで安心(?)監獄で役立つ用語解説
あとがき