知的トレーニングの技術 - 花村太郎

 記憶読書法は記憶すること自体が目的ではなく、血肉化することが目的なのだから、もう一段グレード・アップした方法を紹介しなければならない。これはズバ抜けた記憶力の持ちぬしたち、わが国最大の知性・南方熊楠の方法であり、鷗外を筆頭に明治の知性人たちの活力の源泉になったトレーニング法だ。
 これは文字どおり、本を書写して写本をつくる方法だ。
 南方熊楠は、明治九年一〇歳のとき『和漢三才図会』(一〇五巻)を本屋で立ち読みして筆写をはじめた。一二歳のとき、学校からの帰り道に、古本屋に積まれてある和本『太平記』(四〇巻)を三枚、五枚と立ち読みし、いそいで家にかけこんで読んできたところを紙に写す、ということをやって、半年たらずで全巻写してしまったという。このほか一二歳までに『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等を書写。明治二六年(二七歳)、ロンドンの大英博物館所蔵の稀覯書、五三冊、一万八〇〇ページを書写。明治四〇年(四一歳から、和漢書の抄写、いわゆる「田辺抜書」を終生つづけて六〇巻におよんだ。たとえば明治四四年『大蔵経』(三三〇〇巻)の抄写をはじめて、大正二年に終える、といったぐあいだ。
 世界中の古今の書物から自在に引用して“ミスター・クマグスこそウォーキング・ディクショナリー(生き字引き)だ”とロンドンに集まった学者たちを驚かせた、南方の博引旁証は、この終生つづけた書写術のトレーニングのたまものだったのだ。
 さすがの柳田國男も、「我が南方先生ばかりは、どこの隅を尋ねて見ても、これだけが世間なみというものが、ちょっと捜し出せそうにもないのである。七十何年の一生の殆ど全部が、普通の人の為し得ないことのみを以て構成せられて居る。私などは是を日本人の可能性の極限かとも思い、又時としては更にそれよりなお一つ向うかと思うことさえある」(「柳田國男集」二三巻)と驚嘆している。
 ぼくらも、この「日本人の可能性の極限」といわれる南方熊楠の書写のノウハウにまなんでみようではないか。まるごとの写本でもよいし、抄本でもよいが、手はじめに一冊の古典でも書写したら、こころもからだもみちがえるように変身していることはまちがいない。
 ある文献を正確に書き写せるという能力は、思うほど容易なものではない。正確に本文を観察し、理解しているかどうか、読解力までがこれでためせるのだ。コピーがいくら発達しても、これほと効果のあるトレーニング法を捨ててかえりみないという手はない。とくに、文献をあつかう知的活動を志すひとは、正確な書写は基礎能力のひとつ、とこころ得て熟練してほしい。

花村 太郎(はなむら・たろう)
本名、長沼行太郎。1947年、長野県生まれ。早稲田大学文学部卒業、東京都立大学人文科学研究科修士課程修了。都立高校教諭、関東短期大学教授などを務め、現在、武蔵野美術大学非常勤講師。学生時代より言語・メディア・都市の分野で批評活動を始め、思考のなかではたらく論理とイメージの関係を主に探究している。NHKラジオのインタビュー番組(「学問新時代」「新学芸展望」)、「21世紀の老人問題」「人文・社会科学振興のためのプロジェクト」などの共同研究、高等学校教科書(物理・国語)の編集に携わる。著書に『頭の錬金術』(徳間書店花村太郎名義)、『思考のための文章読本』(ちくま新書)、『嫌老社会』(ソフトバンク新書)などがある。

目次

準備編 知的生産・知的創造に必要な基礎テクニック8章
志をたてる―立志術
それは宙づりのモラトリアム状態から脱出するための第一歩だ。中国の賢人・孔子のライフタイム・スケジュールから学んでみる。

1 知的離陸は志をたてることから始まる
2 志を失わないために何が必要なのか
3 理想の人間像のサンプルは書物のなかに

人生を設計する―青春病克服術
あの革命的な「相対性理論」を構築したあとのアインシュタインの知性は、三〇年ものあいだ、袋小路を歩み続けた。

1 「老い」の問題までもプログラムに入れる
2 “早熟な天才”の生き残る方法
3 ゲーテは“逃げる”ことで自滅をまぬがれた
4 ロマン主義的ノイローゼの克服法
5 “早熟か?”“晩熟か?”に悩む人に

ヤル気を養う―ヤル気術
ポール・ヴァレリーが「朝のみそぎ」と呼んだ、彼の知的習慣は、ヤル気術の典型的な例といってよいだろう。

1 知的能力は意欲から生まれる
2 森鷗外のライフスタイルに学ぶこと
3 毎日の習慣をつくるいちばんの秘訣
4 生きる意欲、ヤル気は内発的な力なのだ
5 伝記はヤル気を起こさせる興奮剤だ

愉快にやる―気分管理術
漱石の絶望的な“不愉快”は、何が原因だったのだろうか。“不愉快”を知的創造のエネルギーに転化させる方法とは?

1 ハシャギ虫とフサギ虫が気分をつくる
2 「愉快」をつくりだすための知恵

問いかける―発問・発想トレーニング法
問いは知的好奇心から生まれる。知的好奇心は、知の空白部分から出てくる。そのために、自分の知的マップが必要だ。

1 自分のなかに世界大の知的マップをつくる
2 問いを答えやすい形式にするのが発想術だ
3 発想トレーニングに必要なものは何か?
4 大勢ならブレーンストーミングがいい

自分を知る―基礎知力測定法
ほんとうの知的「脚力」をものにするためには、漢字の知識まで必要になってくる。知性を飛躍させるには、そこまで必要だ。

1 知的脚力をチェックしてみよう
2 漢字・漢文コンプレックスを克服する
3 語学は肉体トレーニングの集積だ
4 ぼくらの知的空間を大宇宙に拡げるには
5 使いこなす能力とは辞書に慣れることだ

友を選ぶ・師を選ぶ―知的交流術
自分と異なる分野の知人をつくること。向学の士をつくつて協力すること。そして、異なる分野の人たちが集う学際集団をつくること。

1 自分の知力を拡張する交渉術の3パターン

2 友を選んで、友情の共同体をつくる
3 もうひとつの柱は、良き師を選ぶことだ
4 入門期間を終えた師弟関係の宿命は?

知的空間をもつ―知の空間術
書斎とは、自分の知的能力の空間的拡張であり、いわば頭脳と手足の延長だ。そして、空間全体を思考させることが必要だ。

1 書斎は一個の巨大な百科事典なのだ
2 図書館よりも書店の配架法に学べ!
3 使いやすさを第一に考えるのが必要だ
4 本の所有、蔵書には独特の意味がある

実践編 読み・考え・書くための技術11章

論文を書く―知的生産過程のモデル
“方法は高くつく”とヴァレリーは言った。ここに示すモデルをもとにして、自分自身の手法を見つけ出してみよう。

1 単純化した知的生産過程の共通モデル
2 知的生産には12の工程がある
A = 問題意識発生・テーマ設定 B = テーマ分析 C = 第一次情報収集 D = 資料の分類・分析 E = エントロピー廃棄 F = 構想 G = 構成 H = 草稿執筆 I = 草稿検討 J = 第二次情報収集 K = 草稿修正 L = 清書
3 「読む」「書く」「考える」

あつめる―蒐集術
あるテーマについてのコレクションが一定量に達すると、自分の意見をもてるようになる。コレクションは、すでに自分の能力の一部だ。

1 集めることは分析の第一歩だ
2 「全部」あつめることが大切なのだ
3 いい本を見つけだすにはコツがある
4 蒐集的知性の歴史をふり返ってみる

さがす・しらべる―探索術
いろんな分類システムを知り、使いこなせれば、ぼくらの知的好奇心は、解答のある問いにかぎっては必ずみたせるはずだ。

1 いろいろな分類システムを使いこなす
2 探索には推理力も必要だ
3 「目次」による探索と「索引」による探索

分類する・名づける―知的パッケージ術
情報のコレクションも、分類という加工をしないうちはまだ原料段階、悪くするとむガラクタの山で終わってしまう。

1 自分自身の分類体系を身につけよう
2 分類したものに名前をつける

分ける・関係づける―分析術
資料を分類・整理したあとには分析という作業が待っている。分析とは見えない関係を見つけようとすることなのだ。

1 分析とは見えない関係を見つけることだ
定性分析と定量分析
統計資料の読みとり手法
2 まず初歩的な分析術からスタートすることにしよう
3 マトリックスづくりの手法を使いこなす
4 システム分析と構造分析について

読む―読書術
書物というシンボルのカタログには、世界が縮約されている。読書を通してぼくらは、他人の人生を追体験するのだ。

1 「読む」ことは世界を他者と共有することだ
2 本の外にいるか、なかに入るか?
3 アタマのなかにもう一冊の本がある
4 全集通読はトレーニングのチャンピオン
5 からだを使って読んでしまう
6 読者は五つの段階に分けられる
7 「サイドライン法」の実際
8 難点突破のための妙法を紹介してみる
9 記憶読書術にもいろんな方法がある
10 本居宣長から遅読術の奥義を学んでみる
11 “不読の読”こそ読書術の秘中の秘なのだ

書く―執筆術
いよいよ知的生産・知的創造の最終過程だ。ノートとカードを利用して、構想から執筆までの実際のトレーニングをしてみる。

1 メモをとることは執筆への第一歩だ
2 ノート術――知的生産の原点
3 レーニンのノートは何度でも使用可能だ
4 カード派? ノート派?
5 読者としてメディアを計算して書く
6 書くためのデータ収集法
7 構成力トレーニング法
8 語彙肥大症と文法肥大症について
9 カード式文章執筆法

10 推敲トレーニン
11 レヴィ=ストロースの推敲術
12 思考の言語と文章の言葉とのあいだには断絶がある
13 いい文章を書くには技法が必要だ
改行というとっておきの手
文章のとっつきやすさの手法
テクニカル・タームの使用法
具体化の手法も身につける
14 ユニット操作の技法をマスターする

考える―思考の空間術
考えることは、身体的な行為であり目己との対話だ。拡大し続ける世界のなかで、ぼくらはとこに思考するための場所を確保できるだろうか。

1 思考術には、三つの段階がある
対話的思考術
2 ノートによる思考術
3 どこで考えるか――思考の場所術
書斎思考術
獄舎の思惟
外国で考える
亡命思考術
4 フィールドワークの思考法

推理する―知的生産のための思考術
どうしても答えの出ない問いというものがある。だが、問題設定自体がそもそも間違っているのかもしれない。正しく問いを立てる万法とは……

1 有効な問いのたてかたを学ぶ
2 魔術から科学へ
3 思考実験法――ガリレオ的推理
仮説思考法
4 知的生産としての思考は「労働」に似ている
5 対立する二つの思考パターンを身につける

疑う―科学批判の思考術
地球全体が「異常な」実験室と化した時代に、科学をどう捉えるのか。いまぼくらにとって「好ましい科学」とは……

1 科学ははたして無罪か?
2 科学の役割には認識と応用の二つがある
実験科学の思考法
3 もうひとつの科学

直観する―思想術
知のワンダーランドで「遊び」、知的生産を越えた知的創造のためのトレーニング――節約モデルの思考と浪費モデルの思考。

1 知の大量生産から知のワンダーランドへ
2 森の小径に迷い込んこんだぼくらの“知”の行方
3 脱科学的思考――まるごと全体をとらえる
4 浪費こそ、あまりに人間的な行為だ
5 浪費サイクルの思考は答えから問いをつくる

さまざまな巨匠たちの思考術・思想術―発想法カタログ
ウェゲナーの地図、フロイトの痕跡読み、バシュラールの物質的想像力、ボルヘスの迷宮、知のトリックスター思考……

《日本人の発想の基本スタイル》1 夏目漱石の「自己本位」の発想――夏目漱石吉本隆明
《日本人の発想の基本スタイル》2 翻訳文化のなかで考えるための多国籍思考――境界線上の言語・ニッポン語の罠を熟知するために
《隠されているものの解読》3 ウェゲナーの地図思考――アルフレッド・ロタール・ウェゲナー、小松左京
《隠されているものの解読》4 フロイトの《痕跡読み》の手法――フロイト、マルト・ロベール、J・ラカン
崩壊した人間精神の合理性への信頼
《隠されているものの解読》5 バシュラールの物質的想像力――ボードレール梶井基次郎ユングバシュラールサルトルゲーテ
《隠されているものの解読》6 ボルヘスの迷宮思考――アル・ムターシム、オルビス・テルティウス、ひとつの問題の多くの問題、誇飾主義の羅針盤
《かけはなれた地点にあるものとの対話》7 ロジェ・カイヨワの対角線の科学――カイヨワ、ブルトンバタイユデュルケーム、モース
宇宙の基本原理としての「反対称」
《かけはなれた地点にあるものとの対話》8 知のいたずら者たちのトリックスター思考――バフチン寺山修司チャップリンキートン山口昌男

コラム① 図書館は知力を拡張する空間だ
コラム② 電子時代の読書術
コラム③ 弁証法的な思考とはなにか?
コラム④ 知的好奇心とノーベル賞のメダル
コラム⑤ 人間は文学的動物?

文庫版あとがき

本書で言及されている本
準備編 知的生産・知的創造に必要な基礎テクニック8章
#志をたてる―立志術 #人生を設計する―青春病克服術 #ヤル気を養う―ヤル気術 #愉快にやる―気分管理術 #問いかける―発問・発想トレーニング法 #自分を知る―基礎知力測定法 #友を選ぶ・師を選ぶ―知的交流術
  • 野村修『スヴェンボルの対話』(平凡社)
  • ジョン・トッド著,吉田巳之訳『成功遂志・勤学要訣』
  • 中島敦名人伝
  • 原田義人『ニーチェの言葉』(角川文庫)
  • ニーチェ『人間的な、あまりにも人間的な』
#知的空間をもつ―知の空間術 実践編 読み・考え・書くための技術11章
#論文を書く―知的生産過程のモデル #あつめる―蒐集術 #さがす・しらべる―探索術 #分類する・名づける―知的パッケージ術 #分ける・関係づける―分析術
  • ニュートン『光学』
  • 『日本統計年鑑』(総務省統計局)
  • 『芸術と技術の関連に関する調査研究』(共同研究)
#読む―読書術 #書く―執筆術 #考える―思考の空間術 #推理する―知的生産のための思考術 #疑う―科学批判の思考術 #直観する―思想術 #さまざまな巨匠たちの思考術・思想術―発想法カタログ コラム① 図書喬館は知力を拡張する空間だ コラム② 電子時代の読書術 コラム③ 弁証法的な思考とはなにか? コラム④ 知的好奇心とノーベル賞のメダル コラム⑤ 人間は文学的動物? 文庫版あとがき