いま生きる「資本論」 - 佐藤優

マルクス経済学とマルクス主義経済学
 宇野弘蔵の考え方は、基本的に経済学を歴史学の一つとして考えています。経済学というのは、資本主義時代にしか通用しないものです。なぜならば、経済を基準に社会全体が動くようになったのは資本主義になってからですからね。その歴史的に特殊な資本主義時代というものの論理を、実証的かつ客観的に明らかにしていくのが経済学です。
 『資本論』を読んでいく時でも、宇野さんは決して、「理論と実践の有機的な統一」であるとか、「唯物史観」であるとか、「人類が原始共産制から奴隷制になって、封建制になって、資本主義になって、社会主義になって」というような発想はとりません。資本主義社会の論理をつかむということだけを考えていくのです。人間の経済生活が商品によって行われる資本主義社会の内在的論理は全て、客観的かつ実証的な方法で証明することができるんだという姿勢です。
 宇野弘蔵は、共産党系の経済学や『資本論』を訳した向坂逸郎さん――彼は社会党左派系――たちの経済学については「マルクス主義経済学」と呼びました。そして、自分がやっているのは「マルクス経済学」だと言った。マルクスの考えたことは「経済学」と言えるものだけれども、彼の論理体系とそれ以外のいわゆる近代経済学とを区別するために、「マルクスの経済学」の意味合いで「マルクス経済学」と呼んだのです。
 それに対して、「社会主義を実現するんだ。今の資本主義はなってないぞ」という観点、イデオロギーの観点、彼らの正義の観点から「資本論」を読んでいくのは「マルクス主義経済学」であり、自分の経済学とは一切関係がない、としたのが宇野の立場です。 ちなみに、一九七一年に大阪市立大学の見田石介さんとか林直道さん、あるいは東大の先生だった横山正彦さんたちが新日本出版社という共産党系の出版社から、『マルクス主義経済学の擁護』という本を出しました。副題に「宇野弘蔵氏の学説の検討」とある通り、宇野経済学に対する批判的研究を何冊かの連作にする予定だったのですが、この一冊で終わっています。
 見田石介は社会学者の見田宗介さんのお父さんです。見田石介さんの戦前の本は、甘粕石介名義で出ている。途中から名字が変わっているんです。というのは、彼は大杉栄を殺した甘粕大尉のいとこなんですね。甘粕という名字だと、すぐに「もしかするとあの甘粕大尉と関係がありますか」なんか聞かれて「いや、実はいとこなんです」と毎回説明するのが面倒くさいので、名字を変えたのです。
 この『マルクス主義経済学の擁護』の読みどころは、巻末の「宇野説の社会的基盤」という座談会にあります。これを続むと、なぜ共産党が宇野学派を非常に嫌がったかという原因がよく解りますよ。座談会の席上、共産党側に反省する点はないかと問われて、横山正彦さんが「もちろん言わずもがなのことですが、自分自身の頭で思考するということですね。この点の不十分なことは、われわれの欠陥であった」と答えている。「外国の理論に追随していれば、またマルクスレーニン、かつてはスターリンなどに依拠すれば、もう安心するというか、なんとかそれに沿ったものにするという方向に力点が行っていたということですね」。つまり、自分の頭で考えていないことを相当正直に白状しています。だから学生たちは理論的に宇野へ惹かれていくのだろう、という反省が活字で残っているわけです。いかにマルクス主義経済学がおかしなものであったかがわかる文献で、古本屋に一〇〇〇円以下であれば買ってもいいと思いますよ 五、六〇〇〇円の値がついているのを見たことがありまずが、そんな価値はない本です。

いま生きる「資本論」

いま生きる「資本論」

目次
まえがき
1 恋とフェチシズム
いま、『資本論』を読むということ/ポストモダンとは無縁だった/古典を読む意味/『資本論』の文体/日本で『資本論』研究が盛んなわけ/わかりやすい『マルクス・エンゲルス選集』/マルクスエンゲルス/素顔のマルクス/彼の台所事情/二つの魂がある/マルクス経済学とマルクス主義経済学アベノミクスの運/商品とは何か/商品は貨幣を愛する/貨幣の魔術性/日本資本主義論争/講座派対労農派/転向者たちと日本特殊論/〈質疑応答〉
2 どうせ他人が食べるもの
労働力商品の価値/論文に起承転結は不要/型となる本を少々/人生を楽にするために/ミスプリントの物語/『資本論』は何から始まってる?/他人のための使用価値/労働者と資本家と地主/公務員とは何か?/〈質疑応答〉
3 カネはいくらでも欲しい
マルクスの錯綜/商品と資本主義/哲学やるならドイツ語/贈与と相互扶助の久米島/三〇年代の反復が起きている/実証できない語り/靴クリームが消えたとき/人生相談の原因は/カネの変態/利子という魔術/革命の鐘なんか鳴らない/〈質疑応答〉
4 われわれは億万長者になれない
模範答案ふたつ/便利な名著『資本論辞典』/本当に窮乏化するのか/原テキストという問題/あたかも永続するかのごとく/ビットコインは成立するか/自分の文体を見つけよう/『資本論』の肝はここだ/労働者という立場の再生産/小説を読もう/〈質疑応答〉
5 いまの価値観を脱ぎ捨てろ
論理学は少し必要だ/負け犬は排中律/ジャーナリズムから身を守る法/物事の根源へと考える/管理できない管理通貨制度/なぜ競争するのだろう?/今の価値観から脱出する/利子をどこから見つけてくるか/梨の木に梨の実がなるように/カネを持っている人ほど偉い/貨幣は差異を消していく/魂の労働/人間にも値段はつく/〈質疑応答〉
6 直接的人間関係へ
資本論』を宗教から解き放つ/資本主義の二つのフィクション/利子も配当も/世の中のシステムを疑わない/カネか命か/所得と教育と労働力再生産/人間を押し潰すもの/資本主義の論理が届かない場所/剰余価値の作り方/報酬と賃金は違う/熟練労働者たれ/官僚という階級/自分の周りでできること
あとがき

本書で言及されている書籍
まえがき #1 恋とフェチシズム #2 どうせ他人が食べるもの #3 カネはいくらでも欲しい [asin::detail] #4 われわれは億万長者になれない #5 いまの価値観を脱ぎ捨てろ #6 直接的人間関係へ あとがき