仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か― - 魚川祐司

 無我
 では、三相の最後、「無我(anattan)」についてはどうだろう。この無我という概念の内実については、輪廻思想との絡みで第四章において詳しく論ずることになるが、この場で必要なだけの定義を与えておけば、それは経典においてしばしば「無我なるものは、『それは私のものではなく、それは私ではなく、それは私の我(本体・実体)ではない』と、このようにありのままに、正しき智慧をもって見られるべきである」と語られていることからもわかるように、「己の所有物ではなく、己自身ではなく、己の本体ではない」ということである。
 そして「所有物でも本体でもない」ということに含意されるのは、「己の支配下にはなく、コントロールできない」ということだ。実際、ゴータマ・ブッダの説法では、例えば色(身体)が我であるならば、それは病に罹るはずはないし、また色に対して「私の色はこのようであれ、このようであってはならない」と命ずることもできるはずだ、という指摘がしばしばなされる。しかし、実際にはそんな命令はできないから、私たちの身体は勝手に病むし勝手に老いる。だからそれは、「私のものではないし、私ではないし、私の我ではない」というわけだ。
 また。「苦であるものは無我である(yam dukkham tadanatta)」と言われるのも、この「コントロールできない」という「無我」の性質と深く関わる。「苦」という用語の意味は「不満足」であると先ほど述べたが、不満足というのは、言い換えれば「思いどおりにはならない」ということだ。そのように現象があなたの思いどおりにはならないことを認めるのであれば、それはあなたの本体でも所有物でもありませんよね、と、ゴータマ・ブッダは言うわけである。


 仮面の隷属
 ただ、そうは言っても私たちは、ふだん自分自身のことを「自由な行為者」であると何とはなしに感じていることが多いから、右のように言われても、「たしかに私は物質の挙動までは支配下に置いていないけれども、少なくとも自分の行為についてはコントロールしているし、ちゃんと思いどおりに振る舞っているはずだ」と、考える人たちはいるかもしれない。
 この点について説明をする際には、十八世紀の哲学者であるカントによる、「(実践的)自由」と「傾向性」に関する議論が参考になる。即ち、日常において無自覚に生きている場合、私たちは心にふと浮かんでくる欲望、例えば「カレーが食べたい」であるとか、「あの異性とデートをしたい」であるとか、そういった欲求・衝動に「思いどおりに」したがうことを、「自由」であると思いなしがちである。しかし、カントによれば、そのように感覚に依存した欲求にそのまましたがって行為することは、単に人間の「傾向性」に引きずられているだけの他律的な状態に過ぎず、「自由」とは呼べないものである。心にふと浮かんできた欲望に、抵抗できずに隷属してしまうことが「恣意(選択意心、Willkür)の他律」なのだから、それは「自由」とは別物であると、カントは考えていたわけだ。
 仏教においても、(「自由」や「傾向性」という言葉は使わないけれども)基本的には同様に考える。少し時間をとって内観してみればすぐにわかることであるが、「心にふと浮かんでくる欲望」というのは、「私」がそれをコントロールして、「浮かばせている」わけではない。欲望はいつも、どこからか勝手にやって来て、どこかに勝手に去って行く。即ち、それは私の支配下にある所有物ではないという意味で、「無我(anattan)」である。
 つまり、私たちはふだん自分が「思いどおりに」振る舞っていると感じているが、実際のところは、その「思い」そのものが「私たちのもの」ではなくて、単に様々な条件にしたがって、心の中に「ふと浮かんできたもの」であるに過ぎない。
 そのように「ふと浮かんできたもの」、即ち「無我」であるところの欲求や衝動に、それ以外のものを知らないから、ただしたがって行為するしかないのが凡夫にとっての「思いどおり」というものであって、そうである以上、それは上述のカントの用語法に沿って言えば「自由」と呼べるものではなく、単なる「恣意の他律」、即ち、仮面を被った隷属に過ぎないものであるということである。

本書のあとがきで紹介されている書籍

魚川祐司 うおかわ・ゆうじ
仏教研究者。1979年、千葉県生まれ。東京大学文学部思想文化学科卒業(西洋哲学専攻)、同大学院人文社会系研究科博士課程満期退学(インド哲学・仏教学専攻)。2009年末よりミャンマー渡航し、テーラワーダ仏教の教理と実践を学びつつ、仏教・価値・自由等をテーマとした研究を進めている。本書が初の著作となる。訳書にウ・ジョーティカ著『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』(新潮社)。

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

目次
はじめに
前提と凡例
第一章 絶対にごまかしてはいけないこと――仏教の「方向」
仏教は「正しく生きる道」?/田を耕すバーラドヴァージャ/労働(production)の否定/マーガンディヤの娘/生殖(reproduction)の否定/流れに逆らうもの/在家者に対する教えの性質/絶対にごまかしてはならないこと/本書の立場と目的/次章への移行
第二章 仏教の基本構造――縁起と四諦
「転迷開悟」の一つの意味/有漏と無漏/盲目的な癖を止めるのが「悟り」/縁りて起こること/基本的な筋道/苦と無常/無我/仮面の隷属/惑業苦四諦/仏説の魅力/次章への移行
第三章 「脱善悪」の倫理――仏教における善と悪
瞑想で人格はよくならない?/善も悪も捨て去ること/瞑想は役には立たない/十善と十悪/善因楽果、悪因苦果/素朴な功利主義/有漏善と無漏善/社会と対立しないための「律」/「脱善悪」の倫理/次章への移行
第四章 「ある」とも「ない」とも言わないままに――「無我」と輪廻
「無我」とは言うけれど/「無我」の「我」は「常一主宰」/断見でもなく、常見でもなく/ブッダの「無記」/「厳格な無我」でも「非我」でもない/無常の経験我は否定されない/無我だからこそ輪廻する/「何」が輪廻するのか/現象の継起が輪廻である/文献的にも輪廻は説かれた/輪廻は仏教思想の癌ではない/「無我」と「自由」/次章への移行
第五章 「世界」の終わり――現法涅槃とそこへの道
我執が形而上学的な認識に繋がる?/「世界」とは何か/五蘊・十二処・十八界/「世界」の終わりが苦の終わり/執著による苦と「世界」の形成/戯論寂滅/我が「世界」像の焦点になる/なぜ「無記」だったのか/厭離し離貪して解脱する/気づき(sati)の実践/現法涅槃/次章への移行
第六章 仏教思想のゼロポイント――解脱・涅槃とは何か
涅槃とは決定的なもの/至道は無難ではない/智慧は思考の結果ではない/直覚知/不生が涅槃である/世間と涅槃は違うもの/寂滅為楽/仏教のリアル/「現に証せられるもの」/仏教思想のゼロポイント/次章への移行
第七章 智慧と慈悲――なぜ死ななかったのか
聖人は不仁/慈悲と優しさ/梵天勧請/意味と無意味/「遊び」/利他行は選択するもの/多様性を生み出したもの/仏教の本質/次章への移行
第八章 「本来性」と「現実性」の狭間で――その後の話
一つの参考意見/「大乗」の奇妙さ/「本来性」と「現実性」/何が「本来性」か/中国禅の場合/ミャンマー仏教とタイ仏教/「仏教を生きる」ということ
おわりに
あとがき

索引