私の履歴書(鳥羽博道-20)

 なぜ一千坪もの工場用地を買い、それまでの三十倍の規模の工場を建てたのか。当時、東京近辺では、工場用地を見つけるのが年々困難になっていた。ドトールコーヒーショップ(DCS)をチェーン展開する中で、工場用地の確保が負担になり「ほどほどの商売でいい」と自分で思ってしまうかもしれない。逆に、工場を増築するなら事業を拡大しようと思うはずだと考え広い土地を買った。結果として店頭公開をめざす要因となった。
 工場三階にある曲線状に張り出した休憩室のガラス壁は内側を温室とし、コーヒーをはじめ南洋の木を植え空中庭園とした。クリーム色や赤、緑など内装はカラフルに塗り分けた。スイスで見た「社員が早く出勤したくなる工場」を、十年かけて実現した。
 青山に作ったDCS初の直営店と、船橋の工場への投資は自己資金で賄えず、銀行から二億円を借り入れた。しかしいざ開店してみると、青山の店は立地の悪さなどから客が入らず、毎月、大変な赤字を生んだ。
 その上、会社の屋台骨であるコーヒー豆の卸販売もどんどん落ちていった。その年は記録的な冷夏ですべての消費が下落した事がしばらく後に判明するが、当初は理由が全く分からなかった。私は肝をつぶした。工場拡張は卸販売の大幅増を見込んだ投資だったからだ。
 深夜十二時に眠り、夜中の二時、三時に目が覚めてしまう夜が続いた。腸が硬直し、胃を押し上げる。俯せになって腹を押さえ、「このまま死ぬのではないか」「いや今死ぬわけにはいかない」と自分に言い聞かせた。こんな事は初めての経験だった。
 何が何でも、この苦境を乗り越えねばならない。その年たまたま、我々は、ブランドカも無いメーカーだったにもかかわらず、独自のお中元商品を作っていた。これを幸いとし、私は会社の窮状を正直に社員に訴え、全社員でお中元を売った。社員の家族も売り、全体で思わぬ成果を挙げた。私自身、たまたま使った駐車場の係員にまでお中元を売った。これ以降、今日までお中元、お歳暮の売り上げは年々拡大し続けている。
 過剰投資は良からぬ噂も生んだ。コーヒー生豆の仕入れ先であるワタル商会の西林亘社長が出張から帰京し「鳥羽君、関西で今ドトールが倒産し債権者会議を開いているという噂が流れているぞ」と教えてくれた。私は大見えを切り「社長、当面倒産する予定は無いので安心して下さい」と答えた。 社員にも朝礼で「倒産の噂が流れている。お得意様から尋ねられたら、当面その様な予定はありません、その時は前もってお知らせしますと答えて下さい」と話した。幸い業績は半年程で持ち直した。
 一連の投資のため銀行から二億円を借りた時の事。支店の次長は私の申し出に対し、担保も求めず、その場で本店に電話して了解を取り、「明日午前中に二億円の手形を切ってくれれば午後には振り込みます」と快諾してくれた。それまで私は父親に通信簿を見せる子供の様な気持ちで半期毎にきちんきちんと決算書を銀行に持って行き、それが本店に整理されていた。そのためいち早く結論を出してくれたようだ。「鳥羽さんにお金を貸すのは楽なんですよ」と言ってくれた次長の言葉が今も忘れられない。


---日本経済新聞2009年2月21日