デビッド・セインの「ネイティブはこう使う!マンガでわかる」シリーズが無料(Google Play)

以前にも紹介したことのある英語学習本、デビッド・セインの『ネイティブはこう使う!マンガでわかる』シリーズ5冊がGoogle Playでなんと無料で配信されています。配信期限はわかりませんが、興味のある方はこの機会にゲットしてみてはいかがでしょうか。

あの日 - 小保方晴子

生き方全部が間違っていたのか
誰かの役に立つ仕事に就くのが夢だった。その道をまっすぐに追ってきたはずだった。

これまでの人生のあらゆる場面を思い出し、いつのどの判断が間違っていたのか、どうしていたらよかったのか、私はここまで責められるべき悪人なのだと思うと、この世に自分が存在してしまっていることが辛く、呼吸をすることさえ悪いことのように思えた。

幼い頃、「どんな大人になるのか楽しみだ」と微笑みかけてくれた母の思い出がよみがえり、「こんな娘でごめん」と自分を責めた。命懸けで戦えと言われた時のことも思い出した。

最後まで戦い抜けず、途中で弱気になってしまった自分を責めた。支えてくれた友人たちにも、最後まで戦いきれなかったことが申し訳なく、合わせる顔がなかった。これまでの生き方のすべてが間違っていたのかと思うと、どうしていたらよかったのかと、見つからない答えを探していた。

私の心は正しくなかったのか。

これまでの生き方全部が間違っていたのか。

そう自問し、ただただ涙がこぼれた。むせび泣くような体力はもう残っていなかった。

あの日に戻れるよ、と神様に言われたら、私はこれまでの人生のどの日を選ぶだろうか。一体、いつからやり直せば、この一連の騒動を起こすことがなかったのかと考えると、自分が生まれた日さえも、呪われた日のように思えます。

STAP細胞に関する論文発表後、世間を大きくお騒がせしたことを心よりお詫び申し上げます。このようなお詫びを申し上げる手段を見出すことができず、これまで心からの反省や謝罪を社会に向けて行えてこなかったことを、本当に情けなく申し訳なく思っております。

重い責任が自分にあるにもかかわらず、自分でその責任を取りきることさえできず、このような自分が生きてしまっていることに苦しみながら日々を過ごしてきました。

あの日に戻れたら、と後悔は尽きません。でも、もう一度、最初から人生をやり直すことができたとしても、私はやはり研究者の道を選ぶだろうと思います。

ここに真実を書こうと決めた
私は誰の期待にも応えられない自分に失望してばかりの人生を歩んできました。そのような人生の中で、初めて顕微鏡下で観察した生きた細胞は本当に美しく、顕微鏡を覗くたびにいつも何か新しいことを教えてくれ、ドキドキしたりワクワクしたりする素直な気持ちを何度でも呼び覚ましてくれました。

それは、等身大の自分にも何かできることがあるかもしれないと努力する力と、未来への希望を与えてくれるものでした。

STAP細胞の研究中は、細胞の不思議さに魅了され、自分なりに一生懸命に実験に取り組んでまいりました。そのためSTAP細胞論文の執筆過程においても、私は誰かを騙そうとして図表を作成したわけでは決してありません。一片の邪心もありませんでした。

しかし、私の図表の提示方法は、常識として決められていたルールからは逸脱していると判定されてしまいました。不勉強であったことを、心から反省し恥じています。そして、そこから起こった一連の出来事の責任を、抱えきれないほどに感じ、お詫びの言葉も見つかりません。

重すぎる責任に堪え兼ね、死んでこの現状から逃れられたら、と何度も思いました。私は重要な判断を他者に委ね、従えばいいと考えていた弱さや未熟さのある人間です。これまで、他の方に影響が及ぶことを恐れ、私からの発信を控えてきました。

しかし、ここまで社会を大きく騒がせたこの出来事に対し、このまま口をつぐみ、世間が忘れていくのを待つことは、さらなる卑怯な逃げであると思い、自分の持つ弱さや未熟さもさらけだして、この本の中に真実を書こうと決めました。

あの日

あの日

あの日

あの日

目次
1. 研究者への夢
2. ボストンのポプラ並木
3. スフェア細胞
4. アニマル カルス
5. 思いとかけ離れていく研究
6. 論文著者間の衝突
7. 想像をはるかに超える反響
8. ハシゴは外された
9. 私の心は正しくなかったのか
10. メディアスクラム
11. 論文撤回
12. 仕組まれたES細胞混入ストーリー
13. 業火
etc.

第154回芥川賞受賞作2 死んでいない者 - 滝口悠生

 川からそう離れていない畑のなかの一軒の家にはまだ明かりが点いていて、砂利敷きの庭に屋内から漏れる蛍光灯の白い明かりが漏れてぼんやりと照っている。
 庭に面した緑側で機材を前にあぐらをかきヘッドフォンをした美之は、今さっき寺から響いてきた鐘の音を録音することに成功した。
 庭のそこここで嗚く虫の声や、遠く街道を走り去る中の音とともに、音になってしまえば出処のわからない、微かなタッチのあと延び広がるように長く続く鐘の音が記録されていた。
 全部吐き切ったのか案外すっきりした顔つきで戻ってきた英太が、何してんの? と美之の背後から声をかけ、その声も録音された。
 畑の間の道をその家の方向に向かって動く小さな懐中電灯の灯りは、集会所から歩いて帰っている途中の美津子と吉美と多恵だった。
 鐘が鳴ったのには三人とも気づいたが、はじめは別に不思議とも思わず、やや間があってから、やだ、なんでこんな時間に鐘が嗚ってるの、と言ったのは吉美だった。
 すると美津子も多恵も、あら、やだ、なに、怖い、なに、と呟き、呟いているうちにも急激に恐怖が増してきて、怖い怖い怖い怖い! と半ば叫びながら家に向かって駆け出した。
 持っていたビニール袋をひとつ吉美が落っことして、パックに詰めた寿司が道に散らばった。そんなこと構わずに三人は夜道を駆けていく。またひとつ鐘が打たれて嗚った。
 やだやだやだ怖い怖い怖い!
 散らばった寿司はあとで猫が食べにくる。
 集会所に残って酒を飲んでいた男たちは、しゃべっていたから鐘の音にはあまり気づかず、二度めが打たれた時に、一日出が、なんか寺の鐘が鳴ってるな、と呟いて、勝行と憲司と崇志がしゃべるのをやめて外の音に耳をすませた。
 ほんとだ。
 誰だい、こんな時間に。
 じいさんだったりして。
 ははは。
 春寿と涼太は並んで眠っていて、鐘の音に気づかない。
 崇志を集会所まで送ったあと、そのまま実家に戻るつもりだったが、ふと思いついてちょっとドライブしてから帰ろうと国道に出て、ほとんど車の走らない道をいくぶん飛ばして移動していた奈々絵にも、鐘の音は聞こえなかった。
 県内のFMラジオで古いヒット曲が流れている。ノリだけよくって歌も歌詞も馬鹿みたいな曲に合わせて、フォー! などと車内で叫んだり、頭を揺らしたりしていた。DJが、今の曲は一九七九年のヒットナンバー、と紹介し、自分の生まれた年だ、と奈々絵は思う。ということは、今日も葬式に来なかった寛の生まれた年でもあった。
 寛とはまともにしゃべったことがない。最後に見たのはおばあさんの葬式の時だ。一日出と結婚して間もない頃で、森夜を産んですぐの頃だった。一日出から、おもしろい甥がいる、奈々ちゃんと同い年の、とは聞いていた。そのおもしろさが時に、というかしばしば、面倒な事態を引き起こしているという話も聞いていた。
 結局まともに関係を結ぶことはなく、そのおもしろさも面倒くささも知らないまま奈々絵は今に至っているわけだが、火葬場で土下座したり、そのあと泣きながらいちばん最後にお骨を拾って骨壺に入れていた姿はなんというか忘れられなかった。あの時一緒に来ていた理恵子とは、きっともう二度と会わない。死ぬまで一度も会わない。
 理恵子はお骨を拾わなかった。拾ったってよかった。誰も拒んだり、止めたりはしなかったはずだ。しかし彼女も遠慮したわけじゃなくて、いや、遠慮もしたのかもしれないが、体調が悪かった。彼女はあの時浩輝を妊娠していたはずで、時期的につわりがあっておかしくない 火葬場の入り口に立っている姿や、その後親類が飲み食いしながら遺体がお骨になるのを待っている隅でお茶を飲もうとしたり、ためらったりしている姿を見て、妊娠しているのではないか、と思ったのをよく覚えていて、けれどもそんな確かでもないことを誰に言うわけにもいかないし言う気にもならず、初対面なので気安く話しかけることもできず、それ以前に生まれたばかりの森夜の面倒で手が離せなかった。
 あれがまさか最後になるとは思わなかったから、今から考えればちょっとでも何か話しかければよかった この家に嫁いだという点では、似たような立場でもあったのだし。
 しかしそんなこと、十何年後の今日、お葬式の夜に車を飛ばしながら考えたってしょうがない。寛も理恵子も、どこで何をしているやら。いろいろ事情はあるにせよ、自分も二児の親として、ふたり揃って子どもを放り出したことには、まったく同情できない。しかし大切なのは自分が同情できるかどうかなんかではなく、そんなことは寛たち親にとっても、浩輝たち子にとってもどうでもいい、私の同情の多寡などは、どうでもいい。
 早い速度で走り続ける車は、とうに町を出て、山間の地形に沿って曲がりくねる国道をどんどん進んでいく。奈々絵の視界にはフロントガラス越しに暗い、先は何も見えない闇が次から次へと現れ、そこを切り裂くように街灯の光が一定の間隔で現れては過ぎていき、自動車のライトはわずか先の道とその路面とを照らし続けた。
 続いても一九七九年のナンバー。
 妖しげでキャッチーなフレーズが奈々絵の体をまた揺らす。同じような視界が、聞こえてくる音でリズムとともに流れ動く絵になる。今夜、熱い男を求めてる。誰でもいいから熱い男が必要。ドナ・サマーの扇情的な歌声と、やはり深みのない単純な歌詞の歌が続いた。
 今日の日付を名前につけられた音源が、もう間もなくインターネット上にアップされる。美之の弾き語るテレサ・テンの代表曲に、謎の鐘の音がいくつも重なって鳴り続ける そこには途中、何してんの? という英太の声も入っているし、遠く国道を群馬方面に走り続ける奈々絵の自動車の音だって、よく聞けばはっきりと記録されているのだ。


滝口悠生 たきぐち・ゆうしょう
1982年10月18日東京都生まれ。埼玉県育ち。2011年「楽器」で第43回新潮新人賞を受賞してデビュー。15年『愛と人生』で第37回野間文芸新人賞受賞。

死んでいない者

死んでいない者

文學界

文學界

第154回芥川賞受賞作1 異類婚姻譚(いるいこんいんたん) - 本谷有希子

 ハコネちゃんは、もぐもぐ口を動かしながら言った。
 そうだ、おねえさん、蛇ボールの話、知ってます? 私、それ、何で読んだのかなあ。昔、誰かに教えてもらったんだっけかなあ。二匹の蛇がね、相手のしっぽをお互い、共食いしていくんです。どんどんどんどん、同じだけ食べていって、最後、頭と頭だけのボールみたいになって、そのあと、どっちも食べられてきれいにいなくなるんです。分かります? なんか結婚って、私の中でああいうイメージなのかもしれない。今の自分も、相手も、気付いた時にはいなくなってるっていうか。うーん、でも、それもやっぱ、違うのかなあ。違う感じもするなあ。
 ふーん、蛇ボール、ねえ。私はうろこでびっしり覆われたまっ白な球を思い浮かべながら、白米の上に載った蒲焼きを箸の先でつついた。なかなか鋭い結婚観だねえ。
 あれっ、そうですか。自動販売機で買った焙じ茶で、喉を潤しながらハコネちゃんは言った。でも、それって蛇が同じスピードで相手を呑み込んだら、の話ですから。私とセンタだと、私が向こうをひと呑みにしちゃうかもしれない。
 なるほどねえ、と私は七味のたっぷりかかった蒲焼きをロの中に放り込んだ。浜名湖の鰻のほうが、三河のものより身がしまって、しっとりしているな、と思った。


 ハコネちゃんの話には、ひそかに感心させられた。
 というのも、これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取り替えられていくような気分を味わってきたからである。
 相手の思考や、相手の趣味、相手の言動がいつのまにか自分のそれに取って代わり、もともとそういう自分であったかのように振る舞っていることに気付くたび、いつも、ぞっとした。やめようとしても、やめられなかった。おそらく、振る舞っている、というような生易しいものではなかったのだろう。
 男たちは皆、土に染み込んだ養分のように、私の根を通して、深いところに入り込んできた。新しい誰かと付き合うたび、私は植え替えられ、以前の土の養分はすっかり消えた。それを証明するかのように、私は過去に付き合ってきた男たちと過ごした日々を、ほとんど思い出せないのである。また不思議なことに、私と付き合う男たちは皆、進んで私の土になりたがった。そして最後は必ず、その土のせいで根腐れを起こしかけていると感じた私が慌てて鉢を割り、根っこを無理やり引き抜いてきたのだった。
 土が悪いのか、そもそも根に問題があるのか。
 旦那と結婚すると決めた時、いよいよ自分がすべて取り替えられ、あとかたもなくなるのだ、ということを考えなかったわけではない。
 が、結婚して四年経った今も、私は旦那という土から逃げ出そうとはしていない。蛇ボールの話をハコネちゃんから聞かされて、私はこれまでずっともやもやしていたことが、ようやく腑に落ちたと感じた。恐らく私は男たちに自分を食わせ続けてきたのだ。今の私は何匹もの蛇に食われ続けてきた蛇の亡霊のようなもので、旦那に呑み込まれる前から、本来の自分の体などとっくに失っていたのだ。だから私は、一緒に住む相手が旦那であろうが、旦那のようなものであろうが、それほど気にせずにいられるのではないか。
 駅前の豆腐屋の店先で、蚊取り線香が焚かれている。
 ショーケースに並んだ卯の花やがんもどきを覗き込むふりをしながら、私はその煙を鼻から吸い込んだ。懐かしい匂いのせいなのか、なぜか、心底ほっとした。
「何してるの、それ。」
 夕食後珍しく、旦那が点けっ放しのテレビではなくiPadに夢中になっているので、気になって手元を覗き込んだ。
「ん?」
「ゲーム?」
「ゲーム。」
「どんなゲーム?」
 少し待ってみるが、返事はない。諦めて食器を片付け、風呂に入り髪を拭きながら戻ってくると、旦那はさっきと同じ体勢のまま、ソファに座っている。
 「ねえ、お風呂空いたよ。」
 分かった、というくぐもった声が聞こえたが、見事なまでの空返事である。髪を乾かし、昼間干しておいた洗濯物を取り込むためにベランダへ出た。手擦りの向こうに数本まとめて植えられている欅が、伸びすぎた髪の毛のように緑の葉を生い繁らせている。集合ポストの中に、植栽の剪定のお知らせのチラシが入っていたことを思い出した。
 リビングの床に座って、洗濯物を畳んでいると、ようやく旦那が、「これさあ、ウワノが勧めてきたんだけどさあ。」と声をかけてきた。
「ウワノね。最近仲いいね。」
「サンちゃんもちょっとやってみな。おもしろいから。」
「やだよ、私、ゲーム好きじゃないもん。」

「俺も最初、同じことウワノに言ったんだって。ほら。」
「洗濯物、畳んでるの。」
「そんなんゾロミにやらせりゃいいんだよ。ほら、ゾロミ。やってあげな。」
 旦那は隣で寝ていたゾロミをどかし、手招きした。いつもならここまでしつこく誘わないので、今口は甘えたい気分なのだろう。
 旦那はむしろ、一刻も早く、私と蛇ボールになりたがっているように見える。バラエティ番組を観る時も、一人で観るより楽しいからと、しっこいぐらい私を付き合わせるのは、自分に注がれる私の冷ややかな視線を消してしまいたいからに違いない。私と旦那が同化すれば、もう他人はいなくなるとでも思っているのだろう。
 仕方なくソファに座り、iPadの画面を覗き込んだ。何かよほどすごい最新のゲームなのかと思っていたら、昔のファミコンのような単純な線で描かれた海と大陸らしき光景が広がっていて、そのほうぼうに色の異なる小さな円がピカピカ光っている。
「これは何?」私が尋ねると、「あ、それね、コイン。」と肩を回しながら、旦那は答えた。
「で、このコインをどうすればいいの?」
 触ってみな、と言われ、私は指先で茶色のコインを押してみた。チャリンチャリン、とさっきから引っきりなしに聞こえていた貯金箱に小銭を落とすような音がして、何か起こるのだろうかと身構えたが、それだけだった。
「何これ。何も起こらない。」
「画面の下のほう。ちゃんと見た? お金貯まってるでしょ。」
 言われた通り画面の右下を見ると、確かに数字が記されている。
「お金を集めるゲームなの?」
 私が聞くと、旦那はつまみのスルメをしゃぶりながら、「そお。」と浅く頷いた。
「敵は出てこないの?」
「は? 敵? 出てこないよ。」
「お金を集めて、どうするの?」
「お金が集まったら、自分の土地が買えるんだよ。」
「土地を買って、それで? どうするの?」
「土地があれば、またそこにコインがピカピカ光るでしょ。」
「光るの?」
「光るの。そしたら、それを集めて、またお金を貯められるんだよ。そしたら、また土地が買えるの。」
 私は何も言わなかったが、空気を感じ取ったのだろう。スルメを口から出しながら、旦那は「サンちゃんは主婦だからなあ。」と偉そうに言った。
「家じゃなんにも考えたくないって男の気持ちが分かんないんだよなあ。」
「何をそんなに考えたくないの?」


本谷有希子 もとや・ゆきこ
1979年石川県生まれ。2000年より「劇団、本谷有希子」を主宰。作・演出を手掛ける。07年『遭難、』で第10回鶴屋南北戯曲賞を受賞。09年『幸せ最高ありがとうマジで!』で第53回岸田國士戯曲賞を受賞。11年小説『ぬるい毒』で第33回野間文芸新人賞、13年『嵐のピクニック』で第7回大江健三郎賞、14年『自分を好きになる方法』で第27回三島由紀夫賞を受賞。

異類婚姻譚

異類婚姻譚

群像 2015年 11 月号 [雑誌]

群像 2015年 11 月号 [雑誌]

仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か― - 魚川祐司

 無我
 では、三相の最後、「無我(anattan)」についてはどうだろう。この無我という概念の内実については、輪廻思想との絡みで第四章において詳しく論ずることになるが、この場で必要なだけの定義を与えておけば、それは経典においてしばしば「無我なるものは、『それは私のものではなく、それは私ではなく、それは私の我(本体・実体)ではない』と、このようにありのままに、正しき智慧をもって見られるべきである」と語られていることからもわかるように、「己の所有物ではなく、己自身ではなく、己の本体ではない」ということである。
 そして「所有物でも本体でもない」ということに含意されるのは、「己の支配下にはなく、コントロールできない」ということだ。実際、ゴータマ・ブッダの説法では、例えば色(身体)が我であるならば、それは病に罹るはずはないし、また色に対して「私の色はこのようであれ、このようであってはならない」と命ずることもできるはずだ、という指摘がしばしばなされる。しかし、実際にはそんな命令はできないから、私たちの身体は勝手に病むし勝手に老いる。だからそれは、「私のものではないし、私ではないし、私の我ではない」というわけだ。
 また。「苦であるものは無我である(yam dukkham tadanatta)」と言われるのも、この「コントロールできない」という「無我」の性質と深く関わる。「苦」という用語の意味は「不満足」であると先ほど述べたが、不満足というのは、言い換えれば「思いどおりにはならない」ということだ。そのように現象があなたの思いどおりにはならないことを認めるのであれば、それはあなたの本体でも所有物でもありませんよね、と、ゴータマ・ブッダは言うわけである。


 仮面の隷属
 ただ、そうは言っても私たちは、ふだん自分自身のことを「自由な行為者」であると何とはなしに感じていることが多いから、右のように言われても、「たしかに私は物質の挙動までは支配下に置いていないけれども、少なくとも自分の行為についてはコントロールしているし、ちゃんと思いどおりに振る舞っているはずだ」と、考える人たちはいるかもしれない。
 この点について説明をする際には、十八世紀の哲学者であるカントによる、「(実践的)自由」と「傾向性」に関する議論が参考になる。即ち、日常において無自覚に生きている場合、私たちは心にふと浮かんでくる欲望、例えば「カレーが食べたい」であるとか、「あの異性とデートをしたい」であるとか、そういった欲求・衝動に「思いどおりに」したがうことを、「自由」であると思いなしがちである。しかし、カントによれば、そのように感覚に依存した欲求にそのまましたがって行為することは、単に人間の「傾向性」に引きずられているだけの他律的な状態に過ぎず、「自由」とは呼べないものである。心にふと浮かんできた欲望に、抵抗できずに隷属してしまうことが「恣意(選択意心、Willkür)の他律」なのだから、それは「自由」とは別物であると、カントは考えていたわけだ。
 仏教においても、(「自由」や「傾向性」という言葉は使わないけれども)基本的には同様に考える。少し時間をとって内観してみればすぐにわかることであるが、「心にふと浮かんでくる欲望」というのは、「私」がそれをコントロールして、「浮かばせている」わけではない。欲望はいつも、どこからか勝手にやって来て、どこかに勝手に去って行く。即ち、それは私の支配下にある所有物ではないという意味で、「無我(anattan)」である。
 つまり、私たちはふだん自分が「思いどおりに」振る舞っていると感じているが、実際のところは、その「思い」そのものが「私たちのもの」ではなくて、単に様々な条件にしたがって、心の中に「ふと浮かんできたもの」であるに過ぎない。
 そのように「ふと浮かんできたもの」、即ち「無我」であるところの欲求や衝動に、それ以外のものを知らないから、ただしたがって行為するしかないのが凡夫にとっての「思いどおり」というものであって、そうである以上、それは上述のカントの用語法に沿って言えば「自由」と呼べるものではなく、単なる「恣意の他律」、即ち、仮面を被った隷属に過ぎないものであるということである。

本書のあとがきで紹介されている書籍

魚川祐司 うおかわ・ゆうじ
仏教研究者。1979年、千葉県生まれ。東京大学文学部思想文化学科卒業(西洋哲学専攻)、同大学院人文社会系研究科博士課程満期退学(インド哲学・仏教学専攻)。2009年末よりミャンマー渡航し、テーラワーダ仏教の教理と実践を学びつつ、仏教・価値・自由等をテーマとした研究を進めている。本書が初の著作となる。訳書にウ・ジョーティカ著『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』(新潮社)。

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

目次
はじめに
前提と凡例
第一章 絶対にごまかしてはいけないこと――仏教の「方向」
仏教は「正しく生きる道」?/田を耕すバーラドヴァージャ/労働(production)の否定/マーガンディヤの娘/生殖(reproduction)の否定/流れに逆らうもの/在家者に対する教えの性質/絶対にごまかしてはならないこと/本書の立場と目的/次章への移行
第二章 仏教の基本構造――縁起と四諦
「転迷開悟」の一つの意味/有漏と無漏/盲目的な癖を止めるのが「悟り」/縁りて起こること/基本的な筋道/苦と無常/無我/仮面の隷属/惑業苦四諦/仏説の魅力/次章への移行
第三章 「脱善悪」の倫理――仏教における善と悪
瞑想で人格はよくならない?/善も悪も捨て去ること/瞑想は役には立たない/十善と十悪/善因楽果、悪因苦果/素朴な功利主義/有漏善と無漏善/社会と対立しないための「律」/「脱善悪」の倫理/次章への移行
第四章 「ある」とも「ない」とも言わないままに――「無我」と輪廻
「無我」とは言うけれど/「無我」の「我」は「常一主宰」/断見でもなく、常見でもなく/ブッダの「無記」/「厳格な無我」でも「非我」でもない/無常の経験我は否定されない/無我だからこそ輪廻する/「何」が輪廻するのか/現象の継起が輪廻である/文献的にも輪廻は説かれた/輪廻は仏教思想の癌ではない/「無我」と「自由」/次章への移行
第五章 「世界」の終わり――現法涅槃とそこへの道
我執が形而上学的な認識に繋がる?/「世界」とは何か/五蘊・十二処・十八界/「世界」の終わりが苦の終わり/執著による苦と「世界」の形成/戯論寂滅/我が「世界」像の焦点になる/なぜ「無記」だったのか/厭離し離貪して解脱する/気づき(sati)の実践/現法涅槃/次章への移行
第六章 仏教思想のゼロポイント――解脱・涅槃とは何か
涅槃とは決定的なもの/至道は無難ではない/智慧は思考の結果ではない/直覚知/不生が涅槃である/世間と涅槃は違うもの/寂滅為楽/仏教のリアル/「現に証せられるもの」/仏教思想のゼロポイント/次章への移行
第七章 智慧と慈悲――なぜ死ななかったのか
聖人は不仁/慈悲と優しさ/梵天勧請/意味と無意味/「遊び」/利他行は選択するもの/多様性を生み出したもの/仏教の本質/次章への移行
第八章 「本来性」と「現実性」の狭間で――その後の話
一つの参考意見/「大乗」の奇妙さ/「本来性」と「現実性」/何が「本来性」か/中国禅の場合/ミャンマー仏教とタイ仏教/「仏教を生きる」ということ
おわりに
あとがき

索引

ONLY-J上尾愛宕店は悪質店

携帯電話販売の施策でよく使われている方法にキャッシュバックがあるが、いざ契約するとなった場合は、きちんと信頼のおける店を選ばないと駄目だ。いい加減な店を選んだ結果、キャッシュバックが貰えずじまいになったというケースが現実にはあるのだ。

たとえば絶対に避けた方がいい店として挙げられるのは、「ONLY-J上尾愛宕」だ。

この販売店は悪質だ。客がきちんと期日を守って利用明細を送付しているにも拘わらず、キャッシュバックを振り込まない。もし客が苦情でも言おうものなら、巧妙にかわされておしまいだ。

その典型的なパターンはこうだ。まず客が「振り込まれていない」旨を店舗に赴いて店員に告げる。するとこの苦情を聞いた店員はまず、「ここではキャッシュバックの管理を行なっていない」と説明する。そして「今から担当者に電話をかけるので、その人と直談判してください」と言う。その後、実際に電話をかけ始める。担当者が電話口に出ると、店員は電話機を客に渡す。

この後に続くのは非常に胡散臭い電話応対だ。担当者は「モリアイ」なる人物なのだが、この人物、決まってこう応える。「今は出先にいるので、詳細がわからない。社に帰ってお調べした結果を、明日折り返し電話でお伝えする」と。そして恰も信頼のおける人物であるかのごとく「ついてはご都合の悪い時間帯はありますか?」と聞いてくる。そして客はこの質問に応えて電話をきった後、店員によろしくと伝えて店を出る。ところが、これは「モリアイ」氏の巧妙な言い逃れであることが後でわかる。なぜなら、翌日に電話がかかってくることはまずないからだ。

不審に思った客は販売店では埒が明かないとばかりに、系列店を取りまとめている「ケータイショップNo.1」なる会社に電話をかける。すると、この会社、苦情は受け付けてくれるが、やってくれることと言ったら系列店に連絡を促すのみだ。つまり、客がこの取りまとめ会社に電話をかける。するとしばらくして、くだんの「モリアイ」氏から客宛てに電話がかかってくる。単にそれだけなのだ。そして「モリアイ」氏は先日とほぼ同じ調子でこう言うのだ。「今は出先にいるので、詳細がわかりかねます。帰ったら調べてその結果を明日お知らせします」と。そう告げてくるのみだ。案の定、翌日になっても電話が客にかかってくることはない。

ここから分かることは「ONLY-J上尾愛宕」が悪質な販売店であるということだ。

客を騙すその手口は、「携帯電話販売の実店舗」と「キャッシュバック管理場所」を分割しておき、キャッシュバックに対する客の苦情は販売店舗ではなく遠隔地にいる管理担当者へと誘導し、客との「直接」対決を避けるというものだ。キャッシュバック管理担当者の役目は、電話口で客を適当にはぐらかすことだ。つまり「翌日折り返し電話する」とだけ告げお茶を濁すことで客の苦情をかわし責任の所在を曖昧にするのだ。

こうした巧妙で悪質な手口を使って何食わぬ顔で営業を続ける不良店では携帯電話の契約をすることのないようくれぐれも注意して頂きたい。

なおこうしたキャッシュバックの不正行為に関する苦情を au のコールセンターに伝えても無駄である。コールセンターは話を聞くだけ聞いて何も対応しないし、このような不正のまかり通っている状態が問題であるとすら思っていないからだ。

[2016.3.14 追記]
同様の被害に遭われた方々へ
コメント欄を見る限り、同様の被害が多数あるようなので、問題の解決方法をお伝えしておきます。まず、仙川のケータイショップNo.1本店へ行って下さい。そのときキャッシュバックの契約書(振込先口座欄記入済みのもの。下部が送付済みで手元に無い場合は別の紙にて用意)を持参すると良いでしょう。店に着いたら、店員に事情を説明して下さい。確認用に契約書のコピーを取られるはずです。おそらく最終的に話を聞いてくれるのは、管理部部長の堤氏でしょう。その方にも詳しく事情を話して下さい。最後に堤氏から「キャッシュバック入金については私が責任を持って対処します」という確約がもらえれば、その週のうちに間違いなくONLY-J上尾愛宕から入金がなされるはずです。少なくとも管理人の場合はそのような結果になりました。なお、当ブログのコメント欄は情報交換などで、ご自由にお使い下さい。よろしくお願いします。

21世紀の不平等 - アンソニー・B・アトキンソン

『21世紀の不平等』を書いたアトキンソンは、ピケティ(世界的ベストセラーとなった『21世紀の資本』の著者)の師である。

はじめに

 不平等はいまや公的な論議の最前線にある。1パーセントと99パーセントについて多くが書かれ、人々は不平等のひどさについて、以前よりもずっと詳しい。アメリカ大統領バラク・オバマ国際通貨基金IMF)理事クリスティーヌ・ラガルドは、不平等の増大への取り組みが最優先課題だと力説した。2014年、ピュー・リサーチセンターのグローバル・アティチュード・プロジェクトで、回答者に「世界の最も大きな危機」について尋ねたところ、アメリカとヨーロッパでは「不平等に対する懸念がその他のあらゆる危機を大幅に上回って」いた。でも本気で所得不平等を縮小したいなら、何ができるのだろう? 世論の高まりを、実際に不平等を縮小する政策や活動に転換するにはどうすればいいだろう?
 この本で私は、所得分布をもっと平等な方向へと転換させるはずの具体的な政策を提案しよう。歴史の教訓を取り入れ――分布に注目して――不平等の根底にある経済学を新しい目で見直すことで、不平等の規模縮小にいま何ができるかを示そう。私はこの点で楽観的だ。世界は大きな問題に直面しているが、私たちの力の及ばない場面に直面しても、人類全体としては何もできないわけではない。未来の大半は私たちの掌中にあるのだ。

□この本の進め方
 この本は三部から成る。第Ⅰ部では分析を扱う。不平等とは何を意味し、それは現在どの程度なのか? これまで不平等が縮小したことはあるのか、そしてもしあるならばそれらの出来事から何を学べるのか? 経済学は不平等の原因について何を教えてくれるのか? 各章ごとのまとめなしに次の章に続くが、第Ⅰ部の最後に「これまでのまとめ」を設けた。第Ⅱ部は、各国が不平等縮小のためにできる手段を示唆した15の提案をしよう。すべての提案とそれ以外に五つの「検討すべきアイデア」を第Ⅱ部の最後に一覧化した。第Ⅲ部ではこれらの提案に対する様々な反論について考察している。雇用を減らしたり、経済成長を減速させたりせずにみんなが活躍する場を平等化できるのか? 不平等を減らすプログラムを実行するだけの資金はあるのか? 「この先の方向性」では、提案とそれらの実行のためにできることをまとめる。
 第1章は、不平等の意味を論じ、その程度に関するデータにざっと目を通すことで話の基礎をつくる。「不平等」について語られることは多いが、この言葉は人によって意味が違うので、多くの混乱もある。不平等は人間活動の多くの領域で生じる。人は不平等な政治的力を持つ。人は法の前で不平等だ。ここで私が焦点を絞る経済的不平等でさえ、解釈は様々だ。対象の性質とそれらの社会的価値との関係を明確にする必要がある。問題にしているのは機会の不平等なのかそれとも結果の不平等なのか? どのアウトカムに注目すべきなのか? 貧困にだけ焦点を絞ればよいのか? 不平等に関するデータを示されたとき、それを解読する人は必ず、どこにおける何の不平等なのかを問う必要がある。第1章ではまず経済的不平等の概観と、それが過去100年でどのように変わってきたかを示そう。これはこれから論じる不平等が今日重要視されている理由を浮き彫りにするだけでなく、ここで対象としている不平等の主な特徴も明らかにする。
 本書の主題の一つは、過去から学ぶことの重要性だ。サンタヤーナが『理性ある生き方』のなかで言った「過去を忘れる者は、それを繰り返してしまう」という台詞はもはや言い古されているが、多くの言い古された言葉同様そこには多くの真実がある。不平等をどこまで減らせるか、それをどう達成できるかのヒントの両方を、過去は与えてくれる。幸い、所得分布の歴史研究は経済学のなかで、ここ数年で大きく進歩をとげた分野であり、この本を書けたのも、第2章で示す各国における長期的な実証データが大きく改善したおかげだ。これらのデータから、とりわけヨーロッパにおいて戦後数十年で不平等がどのように減少したかをはじめ、重要な教訓が学べる。この不平等の縮小は第二次世界大戦中に起きたが、1945年から1970年代のいくつかの平等化を進めた力の成果でもある。これらの平等化のメカニズム――意図的な政策を含む――は、私が「不平等への転回」と呼ぶ1980年代には機能停止が逆転した。それ以来多くの国(ただし中南米についての議論で述べるように、すべての国ではない)で不平等は増大してきた。
 戦後数十年に不平等低下へと導いた力は、未来の政策をデザインする道筋を示してくれるが、当時から世界は劇的な変化を遂げている。第3章では今日の不平等の経済学について考える。まずは技術変化とグローバル化という二つの力――富裕国と発展途上国労働市場を徹底的に再編成し、賃金分布の格差拡大をもたらす力――に焦点を絞った経済学の教科書的なお話から始める。しかしその後教科書からは離れる。技術進歩は自然な力ではなく、社会、経済的な決定を反映している。企業、個人、そして政府による選択は技術の方向を左右し、そしてそれによって所得分配にも影響が出る。需給の法則は支払われる賃金を制約するかもしれないが、もっと広い配慮も加える十分な余地も残っている。経済、社会的文脈を考慮したもっと広範な分析が必要だ。教科書的なお話では労働市場だけに注目し、資本市場を扱わない。資本市場、そしてそれに関連する総所得における利益シェアという問題は、かつては所得分配分析の中心的要素だったが、それは今日でも再びそうあるべきだ。
 分析の次は行動だ。本書の第Ⅱ部で行う一連の提案は、組み合わせることで私たちの社会をかなり低い不平等水準へと移行させられる。ここでは財政上の再分配――これも重要ではある――に限られない多くの分野の政策を扱う。不平等縮小は誰にとっても重要事項であるべきだ。政府のなかでは、社会保護の責任を負う大臣と同様に、科学担当大臣にとっても重要な問題であり、労働市場改革同様に競争政策の問題でもある。個人の立場でも、納税者としての立場のみならず、労働者、雇用者、消費者、貯蓄者の面からも考慮すべき問題であるべきだ。不平等は私たちの社会経済構造に組み込まれており、これを大幅に縮小するには、私たちの社会すべての側面の検証が求められる。
 だから第Ⅱ部の最初の3章ではそれぞれ別の経済要素を論じる。第4章は、技術変化とそれが分配面で持つ意義を扱うし、その際には市場構造や対抗力との関係も考慮する。第5章は労働市場と変わり続ける雇用の特質を扱い、第6章は資本市場と富の分け合い方を論じる。いずれにおいても市場力とその配置が重要な役割を果たす。富の分布は20世紀を通じて集中が弱まってはきたが、それは経済的な意思決定の支配権が移行したということではない。労働市場では、ここ数十年の環境変化によって、労働市場の「柔軟性」が著しく増大し、労働者から雇用者への支配力の移行が起きた。多国籍企業の成長、貿易と資本市場の自由化のために、顧客、労働者、そして政府に対する企業の立場を強化した。第7章と第8章は累進課税社会保障制度の問題をとりあげる。そこで提案した方策のなかには、もっと累進的な所得税への回帰など、すでに広く議論されてきたものもあるが、社会保護の礎となる「参加型所得」という着想など、もっと意外なものも含まれている。
 「増大する不平等と戦う方法は?」という問いに対する標準的な答えは、教育と技能への投資増大を推奨することだ。私はそのような手段についてあまり言及していないが、それらが重要ではないと感じているからではなく、すでに大いに議論されているからだ。もちろん私は家族と教育に対するそのような投資を支持するが、もっと根本的な提案――現代社会の根本的状況の再考と、ここ数十年支配的な政治思想からの脱却が求められるような提案――を強調したい。おかげでそうした提案は最初は風変わりか非現実的に見えるかもしれない。このため第Ⅲ部は、提案されている手段の実現可能性への反論と財政的な実現可能性に充てる。反論として最も明確なものは、必要な手段を実行するための予算がないということだ。しかし、予算の計算に入る前に、公平性と効率とのあいたには対立が避けられないという、もっと一般的な反論について考えてみたい。再分配は必然的にインセンティブを削ぐのか? この厚生経済学と「パイの縮小」についての議論が第9章の主題だ。提案に対する二つめの反論は、「そういう提案は結構だが、今日ではグローバル化か広がっているから、一国でそのような極端な方向には進めないよ」というものだ。この潜在的に重要な議論について第10章で論じる。第11では、イギリスを具体的なケーススタディにして、私の提案が政府予算にとって持つ意味、つまり提案の「政治的計算」について論じる。読者のなかにはここから読む人もいるだろう。私はこの主題を最後にまわしたが、それを重要ではないと信じているからではなく、必然的に分析の場所と時間を具体的に考えねばならないからだ。提案した税による歳入と社会移転の費用は、それぞれの国の制度的構造など各種の特徴によって決まる。よって私の狙いは、今日のイギリスでできることを例に、経済学者が政策提案の実現可能性を評価する方法を説明することだ。提案のいくつかでは、そのような計算は不可能だが、それらが公共財政にどう影響するかについて、大ざっぱに示唆するよう努めた。

□今後の展開
 この本は、不平等の原因と解決策だけでなく、現在の経済学的思考状況に対する私の思索の産物だ。イギリスのステラ・ギボンズが1932年に書いた小説『コールド・コンフォート・ファーム』では、「その文章が文学なのか(中略)あるいはまったくのだわごと」なのか判別がつかない読者を助けるために、作家は(間違いなく皮肉をこめて)「より優れた一節」に星印をつけるという手法を採用している。私は彼女の例を採用して、社会通念から逸脱した一節には印をつけて、「たわごと」を危惧する読者が警戒できるようにしようかとも思った。そういう星印の導入はあきらめたが、主流からの逸脱については明示している。強調しておきたいが、私が採用した試みが絶対優れていると主張するわけではない。でも経済学の手法は一つだけではないのだ。私はイギリスのケンブリッジアメリカ、マサチューセッツ州ケンブリッジで、経済変化、あるいは政策によって「誰が利益を得て、誰が損をしたのか」問うよう教えられた。これは今日のメディアにおける議論や政策論争に欠けている問いだ。多くの経済モデルが、洗練された意思決定を行う均一の代表主体を想定しているが、そこでは分配の問題は抑圧されており、それがもたらす結果が公正なものかについて考える余地はない。私は、そのような議論をする余地が必要だと考える。経済学は一つではないのだ。
 この本は経済と政策に興味を持つ一般読者向けに書いた。専門的記述は概ね章末注に限られ、使用した主要な用語のうちの一部について用語集も加えた。いくつかのグラフやわずかな表も含まれる。すべての図表の詳細な出典は、本書章末の図表出所に示した。私は「すべての方程式は読者の数を半減させる」というスティーブン・ホーキングの格言を心に留めてきた。本文には方程式は一つもないので、読者が最後まで読了してくれるといいのだが。


訳者の山形浩生が本書に関して『東洋経済』誌に寄稿記事を書いている。

 本書は、ある意味でピケティ『21世紀の資本』に見られたそのような単純な図式をたしなめるものでもある。格差・不平等が拡大してきた原因は様々だ。多面的な現象なんだから、それを一つの原因だけに帰して、たった一つの解決策でそれが片付くかのような印象を与えるのは、あまり望ましくない。もっと多面的な見方が必要だ、とアトキンソンは告げる。

http://toyokeizai.net/articles/-/94894

アンソニー・B・アトキンソン(Anthony B. Atkinson)
オックスフォード大学ナフィールドカレッジ元学長。現在、オックスフォード大学フェロー。所得分配論の第一人者であり、国際経済学会、欧州経済学会、計量経済学会、王立経済学会会長を歴任。所得と財産の分配の歴史的トレント研究という新しい分野を切り開いた。論文・著書多数。

21世紀の不平等

21世紀の不平等

目次

序文:もっと平等な社会に向けた現実的なビジョン
――トマ・ピケティ

 訳者はしがき
 謝辞
 はじめに

第Ⅰ部 診断

第1章 議論の基礎
  ■機会の不平等と結果の不平等
  ■経済学者と所得不平等
  ■データに目をとおす
  ■不平等の様相
  ■誰が分布のどこに位置しているか?

第2章 歴史から学ぶ
  ■証拠の出所
  ■過去のいつの時点で不平等は縮小したのか?
  ■戦後ヨーロッパにおける不平等低減
  ■21世紀の中南米
  ■いま私たちはどこまできたのか?

第3章 不平等の経済学
  ■グローバル化と科学技術に関する教科書的なお話
  ■市場原理と社会的な文脈
  ■資本と独占力
  ■マクロ経済学と民衆
  ■これまでのまとめ

第Ⅱ部 行動のための提案

第4章 技術変化と対抗力
  ■技術変化の方向性
  ■技術進歩への投資家としての国
  ■対抗力

第5章 将来の雇用と賃金
  ■変化する雇用の性質
  ■完全雇用と保証労働
  ■倫理的賃金政策

第6章 資本の共有
  ■資産蓄積の推進力
  ■小口貯蓄者の得られる現実的収益
  ■すべての人々に遺産を
  ■国富とソヴリン・ウェルス・ファンド

第7章 累進課税
  ■累進所得税の復活
  ■相続税と資産税
  ■グローバル課税と企業への最低課税

第8章 万人に社会保障
  ■社会保障の設計
  ■児童手当の中心的な役割
  ■ベーシック・インカム
  ■社会保険の刷新
  ■私たちの世界的な責任

不平等を減らす提案

第Ⅲ部 できるんだろうか?

第9章 パイの縮小?
  ■厚生経済学と平等・効率性のトレードオフ
  ■平等性と効率性の相補関係
  ■プリンの実力
  ■まとめ

第10章 グローバル化のせいで何もできないか?
  ■歴史的に見た社会保障制度
  ■グローバル化と自分の運命の決定権
  ■国際協力の余地
  ■まとめ

第11章 予算は足りるだろうか?
  ■税―給付モデル
  ■イギリスについての提案とその費用
  ■提案(の一部)の影響
  ■まとめ

この先の方向性
  ■提案
  ■先に進むには
  ■楽観論の根拠

 用語集/図データ出所/注/索引