ジミーの誕生日 - 猪瀬直樹

プロローグ


 あの独裁者ヒトラーを喜劇の王者チャップリンが鼻の下に口髭をつけて演じると、怒気に満ちた表情かひっくり返って、たちまち滑稽になる。ヒトラーは演劇的な存在だった。しゃべり方、敬礼の仕方、身振りに手振り、そのすべてが。だからチャップリンはそのひとつひとつを少しずつズラしてしまうことで喜劇にして見せた。
 レーバンの色の濃いサングラスをかけ、コーンパイプを口にくわえて厚木飛行場に降り立ったダグラス・マッカーサーもどこか芝居じみて見える。こぶしを振りあげる派手な身振りがない代わりに、白頭鷲が刺繍された軍帽を深く被り、威圧的で落ち着きがあり寡黙で、古風な礼儀と威厳を備えている父親のようであった。
 有名な昭和天皇と並んだ写真。マッカーサーは軍服の略装で開襟シャツ、両手を腰にあて両脚をやや開いた気楽なポーズで堂々と見える。昭和天皇はモーニングに縞のズボン、ハイカラーにネクタイの正装で、瞳をつけて直立不動の姿勢で緊張した表情である。
 重要な証言をひとつ、つけ加えておかなければいけない。この写真では、マッカーサーは顎を引かずに少し上向き加減に突き出している。さらに腰に手をあてる動作で背中を反り返らせている。顔かうつむき猫背の姿勢でいると禿頭が写るのでそうならないように注意していた、とのちに副官のフォービオン・バワーズ少佐が僕にそう教えてくれた。バワーズは歌舞伎など日本文化に造詣が深くて根っからの軍人でないのでポロッと洩らすのである。
 GHQはジェネラル・ヘッドクォーターズ、日本語では連合国軍総司令部マッカーサーはそのトップで連合国軍最高司令官である。
 マッカーサー連合国軍最高司令官として、皇居の真向かいにある第一生命ビルを総司令部としたのは、咄嗟の判断ではなく計算のうえであった。皇居を睥睨する位置に星条旗が翩翻とひるがえらなければいけない。新しい指導者は天皇でなくマッカーサーであることを見せつける必要かあった。お濠端を自動車でひとまわりして「ここだ」と自ら決めた。七階建ての第一生命ビルは花崗岩の堂々たる柱が並び、壁はイタリア産の大理石で覆われている。
 ところがその六階のマッカーサーの部屋は、濠に囲まれた皇居をつつむ広大な素晴らしい緑地が見える窓際ではなかった。薄暗い内廊下の突き当たりにある、倉庫に使われていた十六坪(五十平方メートル余)の小部屋だった。奥の院に御座すのだ。
 入口に一畳ほどの控室があり、来訪者はたった四つしかない椅子に坐り、待機させられた。部屋には電話もタイプライターもなく、飾りつけのない事務机の上には紙切れ一枚も見られなかった。擦りきれた緑色のレザーの椅子に坐って、書きものをするときはペンで筆記をする。訪問者が来れば、いそいで椅子から立ち上がり強く握手し、まばたきせず相手の服を見つめ、こころから発する個性的な歓迎の言葉を述べた。そしてしばしば思考の流れに調子を合わせるように部屋のなかを歩き回った。
 マッカーサーは懇意の訪問客を相手に、対話をしながら自分の考えを深めていく習慣があった。そしてよくはたらいた。土曜日も日曜日も関係なく、毎日はたらいた。午前十一時ころに執務室に到着し、二、三時間はたらくと宿舎のアメリカ大使館公邸に戻り昼食をとった。軽い昼寝をすると午後五時にまた出勤し八時を回るころに帰宅する。
 総司令部の下に日本政府があり、GHQ覚書というかたちで命令を下した。間接統治である。総司令部は一元的に日本の占領統治に関わる権限を発揮したか、タテマエとして連合国のアメリカ、イギリス連邦ソビエト・ロシア、中華民国の四カ国で構成される対日理事会の助言や意見を尊重するはずだった。 対日理事会の議長はマッカーサーだが、徹底的に対日理事会を無視した。ただ一度しか出席しなかった。代理として議長をつとめたのが総司令部外交局長のウィリアム・シーボルトである。
 シーボルト昭和天皇と同い歳の四十七歳で、中肉中背で端正な面立ちの紳士、ちょっとした日本通であった。アナポリス海軍兵学校を卒業してアメリカ海軍に入り、二十四歳で来日して一年目で神戸で開業している英国人弁護士の美人娘と結婚した。娘の母親は日本人、つまりハーフということになるが、一目惚れである。その後、帰国してロースクールに入り弁護士資格を取った。再度、来日して外交次長、ついで局長の任についている。


 占領期間が三年過ぎた。昭和ニ十三年(一九四八年)十二月二十一日、戦争に日本が負けてから三年経ったということだ。
 昼を回ったころ、ひとりの外交官がこわばった表情でその部屋を後にした。
 マッカーサーの部屋を辞する際、シーボルトは言った。
「元帥、これから先はわたしの判断でやっていいのですか」
「もちろん君の判断だ。君の自由裁量でやりたまえ」
 マッカーサーは腰にあてていた手をシーボルトの肩に置き、いたわるように言った。
「ビル、これはまことにきつい任務だね」
 シーボルトは、マッカーサーから対日理事会の代表(アメリカを除く、イギリス連邦ソビエト・ロシア、中華民国)に宛てた死刑の公式立会人の出席要請書を託された。
 アボイントは秘密裏にとることにした。
 翌十二月二十二日の朝、対日理事会の定例会議が開かれたが、死刑執行についての話題は避けた。午後五時から六時までの間、腕時計を見ては時刻を気にしながら個別に三カ国それぞれの公邸を順に訪ねた。
 最初に愉快でいつも協力的なパット・ショウ(イギリス連邦の代表、オーストラリア人)に会った。書簡を拡げてしばらく黙していたが、やっとのみこめたという様子で頬を紅潮させ「スコッチを飲みましょう」と言った。
 でっぷりと太っていて軍服がはちきれんばかりのソビエト・ロシアのデレビヤンコ将軍は、ロシア語しか話さない。必ず通訳を同行させるが、あっさりと一人で行くことに同意した。
 いつも討論では沈黙していて無感動な表情でいる中華民国の商震将軍は、少し血の気が引いた唇で「服装はどうしたらよいのか」と訊ねたので「軍服のままでよいと思います」とシーボルトは答えながら、以前から予定されていた立食パーティがこのあとにあり、出席するのが億劫になった。
 立食パーティの人込みのなかで上の空だった。もうすぐ死刑がはじまる。「まことにきつい任務」が待っている。雑談に加わる気持ちになれない。この場をどのタイミングで抜け出し、家に戻って着替えてから出発して、と段取りばかりを反芻した。妻が疲れたというので腕時計を見ると午後十時、そっと退席した。
 五反田のシーボルトの家にセダンが二台、武装した憲兵を乗せたジープが一台、迎えにきている。パット・ショウ、デレビヤンコ、商霞らつぎつぎにシーボルトの自宅前に到着した。
 互いにささやくように挨拶して二台のセダンに分乗した。ジープか護送する。凍てついた夜だった。タイヤがときどき霜を踏みバリバリと音をたてた。重大な出来事がすぐあとに控えている。いま秘密裏に進行している出来事に対して、万が一、日本人による妨害工作が起きないともかぎらないのだ。街路に人影はなく、雲がたれて星もまたたかない深夜の戦災で煤けた東京を、人知れず疾走した。
 死刑執行まであと三十分に迫っている。シーボルトは行く手にそびえる建物。集鴨プリズンを「夜のなかにみにくい、うずくまったような姿で立っていた」と記憶している。
 巣鴨プリズンに到着したのは、午後十一時三十分をちょっと過ぎたころであった。


 すでに準備は整えられていた。午後七時、幌付きトラックがジープに護られて巣鴨の門をくぐっている。絞首刑のあと、死体を運び出すために用意された。
 絞首刑は七人である。極東国際軍事裁判A級戦犯二十八人の被告のうち死刑を宣告されたのは、東條英機(大将、元首相)はじめ、土肥原賢二(大将)、松井石根(大将)、武藤章(中将)、板垣征四郎(大将)、広田弘毅(元首相)、木村兵太郎(大将)だった。文官は広田弘毅のみ、東條以下はすべて陸軍軍人だった。海軍出身者には終身刑はいても死刑は一人もいない。

 巣鴨プリズンには六つの棟があり、十一月十二日に判決が下されると死刑囚は第一棟に収容された。一つの棟には五十以上の独房があったが、第一棟には三階の一部に七人の死刑囚を収容し、残りすべてを空室にした。七人の独房を監視するために八名の監視隊か組まれ、別に将校一名、衛生下士官一名がいた。死刑囚は十五分ごとに呼吸と脈をチェックされた。百ワットの電灯が昼夜照らしつけ監視を助けた。三階の七つの窓の明かりだけが異様に夜空に浮かび上がっている。
 七人の死刑囚のうちまず土肥原大将、松井大将、東條大将、武藤中将の順に四人が独房から出された。四人は一列になり第一棟の一階まで階段を降りた。独房からチャペルと呼ばれる一階にしつらえられた急ごしらえの部屋に入ったのが午後十一時四十分である。死刑囚に最後の祈りを司る教誨師が数珠を手に待っていた。五十歳の花山信勝浄土真宗本願寺派の僧侶で、仏壇に焼香の準備を整えてから、葡萄酒と水を入れた二種類のコップを七人分用意して迎えいれた。丸縁の眼鏡をかけ細い顎で微笑むと人の好い善良な面がにじみ出る人物だった。
 花山はそのときの四人の姿をこう述懐している。
「両手には手錠がかけられ、さらにその手錠は褌バンドで股に引っかけられていた。きわめて不自由な姿である。着物はいつも着ていられた米軍の(カーキ色)作業衣であった。しかしシャツは見えた。クツは編み上げの日本クツであった。係官から時間か七分しかないといわれたので、取りあえず仏前のロウソクで線香に火をつけて、一本ずつ手渡し、わたしが香爐を下げて手もとに近づけて立てていただき、それから仏前に重ねておいた奉書に署名をしてもらった。不自由な手ながら、インクを含ませた筆をとって、土肥原さんから順に筆を揮った。それからコップに一ぱいのブドウ酒を口につけてあげて飲んでもらう。さらにコップの水をわたしが少しずつ飲んでは、みなさんに飲んでいただいた」



著者自身によるコラム