私の履歴書(鳥羽博道-18)

 一杯百五十円でコーヒーを売ると決めた後「さあ、百五十円で商売をやっていくにはどうすればいいだろうか」と考えた。まず、すべてを自動化し人件費を削減しなければならない。フードメニューも充実させなければいけない。
 店は九坪しかなく、本格的なキッチンは作れない。そこでパンにソーセージを挟んだホットドッグを出す事にした。欧州視察ツアーのドイツで味わったものを再現し「ジャーマンドック」として売り出そうと考えた。
 コーヒーの抽出は、誰でもおいしい味が入れられるようドイツ製の全自動機にし、パンを焼くために当時としては極めて珍しい米国製のコンベヤートースターを導入し、スウェーデン製の食器の自動洗浄機も入れた。先進的なものは何でも使い労働生産性を高める為の知恵を絞った。
 問題はソーセージだった。当時の日本では魚肉ソーセージくらいしか流通していなかったからだ。フランスで食品見本市があると聞きすぐ飛んで行った。またドイツで日本の商社の方にたくさんのソーセージを用意してもらった。私の舌の記憶とぴったりした物が見つかった。しかし帰国後、肉製品には輸入制限があり、自由に買えないと知った。
 私は大手スーパーのバイヤーに、日本でおいしいソーセージを作る会社はどこかと尋ね、栃木県のメーカーを教えてもらった。社長に電話し、理由を話し、伺いたいと頼むと「待っている」と言う。別のパンメーカーとこのために特別に開発したパンを車に積み、高速を走った。料金所を出た所に専務が待っていてくれ、工場まで先導された。
 先方の社長はドイツに留学経験があり、ドイツから職人を招いて指導を受けた事もあるという。こうして私の考え通り日本初のジャーマンドックが出来上がった。値段は百八十円。原価率は七割にもなったがそれはこちらの都合に過ぎない。お客様が買ってくれる値段は百八十円だと考えた。
 一九八〇年(昭和五十五年)四月十八日、ドトールコーヒーショップ一号店は開店した。最初のお客様は年配の方だった。こういう方が来てくれるならいけるという思いがした。瞬く間に一日数百人も来る盛業店になった。
 二号店は所沢駅前の元果物屋さんで、喫茶は成功したがコーヒー豆が売れずオーナーは悩んでいた。私は助言した。「客ではなく一日二人のお友達を作る思いで接し、おいしいコーヒーの点て方を指導して下さい。年間七百二十人のお友達ができる筈です」。オーナーは感じ入り、そのまま実行。今でもコーヒー豆の売上高は常にトップクラスだ。
 三号店は横浜の馬車道。開店予定地に行ってみると、季節は冬で、地下鉄の出口からコートの襟を立てたサラリーマンが大勢出てきた。「ああ、この人たちをうつむいたまま会社に行かせてはいけない」と思い、思わず吸い込まれるような明るい店を作ろうと考えた。コーヒーを飲んだ人に「行ってらっしゃいませ」と元気に送り出し、カップを下げてもらった時は「恐れ入ります」と挨拶する様指導した。
 開店するとサラリーマンが吸い込まれる様に店に入って来た。「行ってらっしゃいませ」などの挨拶を「この店は女房も言ってくれない様な事を言ってくれる」と喜んでくれ、他のビジネス街の店でも同様の挨拶をする様にした。


---日本経済新聞2009年2月19日