私の履歴書(鳥羽博道-21)

 ドトールコーヒーショップ(DCS)がようやく軌道に乗りかけた頃、欧州最大のコーヒーチェーンであるドイツのチボーの社長と企画室長が私を訪ねてきた。当社の店を見学したいというので、出来たばかりの下北沢の店に案内した。「写真を撮っていいか」と聞くので「どうぞ、どうぞ」と喜んで答えた。
 日本のチボーになるのが私の夢だった。「私は御社を参考に店を作ってきたのです」と言うと、社長は「参考にしたとは言え、それを超えればあなたの創造です」と言い、店内やメニューを撮影していった。チボーは食品や化粧品などを持つコングロマリットであり、大変な光栄だった。
 その後一、二年が過ぎ、ドイツを訪れた時、チボーの新店を見て、うちの店を参考にした事が分かった。元々チボーは豆の挽き売りが主で、店で飲むのは試飲の要素が強かったが、新店は、その頃のDCS同様、椅子を置き、飲食の機能を強化していたのだ。「チボーにお返しができた」と感じ、嬉しかった。
 翌年、今度はチボーの企画部長と営業部長がやってきて「日本で一緒にチボーを展開しよう。ついてはドトールの株を三割譲ってくれ」と申し入れてきた。非常に高飛車な要求だった。向こうは欧州でも有数の大資本であり、応じれば一気に飲み込まれると思った。しかし正面から拒絶するのも恐ろしかった。「ならば御社の株も当社に譲って下さい」「それは出来ない」「それなら当社の株も譲れません」と婉曲に退けた。
 するとチボーは独自に日本に進出する事にし、日本法人を設立。既にDCSが二店あった吉祥寺の繁華街に素晴らしい店を作り、コーヒーをDCSより三十円安い一杯百二十円で売り出した。
 キリンビールもフランスの焙煎業者と提携し「カフェ・セボール」を吉祥寺に出店した。ダイエーも「カフェ・ボンサンク」という店を出店。NHKをはじめマスコミは「吉祥寺コーヒー戦争」と名づけ、盛んに報道した。
 一つは欧州の大資本。もう一つは日本を代表する飲料会社。残る一つは流通業の雄だ。どの勢力も、いずれ全国展開する構想だった。そうなれば、弱小のドトールなど、ひとたまりも無い。
 会社を作り、コロラドを作り、DCSを作り、苦労をし続け、ようやく成功の足がかりをつかんだと思ったら、大資本に引きずり下ろされ、亜流に押しやられるのか。そう思い、大変な危機感を覚えた。二十五年かけて築いたわが牙城は揺るがされていた。
 現実は、強いものが勝ち、弱いものが負けるのが世の中の常だ。強くなるにはどんな知恵でも使い、どんな努力でもしなければならない。
 他社に対抗するため、IRP経営学院という教育研修の組織を作り人材教育を徹底するなど、思いつく限りの手を打った。結局、この吉祥寺戦争は短期間で終結した。先に挙げた大資本は皆、二、三年のうちに撤退したり、店舗数が増えなかったりした。思うに、根底に「喫茶業とは何か」という理念を持っている私どもの考えがお客様に受け入れられたのではないだろうか。
 この時に始めた人材教育の仕組みは、後にFC展開をする上で非常に役に立った。


---日本経済新聞2009年2月22日